2024.9.26 (木) タイ日記(1日目)
00:26 Airbus A350-900(35D)を機材とするTG661は、定刻に6分おくれて羽田空港を離陸。
前日の起床は2時台。よって今回はいつもとは異なって、睡眠薬は飲まなかった。アイマスクを着けたもののなかなか寝付けず、しかしいつの間にか眠りに入る。
02:25 目を覚まして目の前のディスプレイで現在位置を確かめる。何といまだ那覇の上空で、ゲンナリする。90分ほどしか眠れていないのではないか。しかたなく洗面所へ行くと歯磨きのセットが用意してあったため「ラッキー」とばかりに歯を磨き、使い捨てでない大きさのペーストはいただくことにする。そして席に戻ってまたまたアイマスクを着け、ヒマに耐えかねているうち幸い、ふたたび眠りに落ちる。
04:20 目を覚ますと機内は明るくなっていた。通路では朝食のワゴンが動き始めている。しかし機はいまだ、海南島の沖にも達していない。
04:25 朝食。腹八分目に留めて、すべては食べない。
05:02 ダナンの上空を通過。ここを過ぎさえすれば「こちらのもの」という気分になる。
05:40 「スワンナプーム空港まで30分」のアナウンスが流れる。
05:49 機が降下を始める。
05:59 バンコクの灯りがちかくなってくる。
06:00 車輪が降ろされる。
06:04 定刻より46分も早いタイ時間04:04にスワンナプーム空港に着陸。以降の時間表記はタイ時間とする。
機を降りたら皆の歩いて行く方へ自分も歩いて行く。途中、多くの飛行機の行き先と搭乗口を示す大きな表示板が現れるものの、ここでそれを見る必要はない。サテライトターミナルからメインターミナルへのシャトルトレインの乗り場までは、何も考えなくてもたどり着ける。
04:22 シャトルトレインがサテライトターミナルを発車。
04:25 その車両がメインターミナルに着。
これまた皆の歩いて行く方へと進んでいくも、集団はあるところで二手三手に別れた。バンコクで降りる人のための入国審査場の他に”Connecting Flights”と”Transfer Desk”の表示が複数の方向に出ているのだ。さて、自分はどちらへ進むべきか。するとちかくの頭上看板に”To Chiangmai,Chiangrai,Phuket,Krabi,Samui,HatYay,Trat”の文字が見えた。「デスク」までの距離は380メートル。動く歩道は調製中だった。
04:35 見慣れた入国審査場に、しかしいつもとは異なった方向から辿り着く。2014年、ここでかたわらの空港職員に「いつになったら開きますか」と問うたところ、彼は自分の腕時計の5の数字を指して「ファイブ」と教えてくれた。タイ航空の今朝のオバチャンは、4時55分にカウンターに着いた。上出来の仕事ぶりである。
5時を過ぎたところで順番に柵の中に入る。そしてオバチャンの助手のような女の子にパスポートと、ここからチェンライまでの搭乗券を差し出す。すると女の子は「ここまでの搭乗券も」と言う。羽田からの搭乗券は用無しと考えて、ザックの中に納めてしまっていた。それを取り出し見せて、そのカウンターを抜ける。僕には移動中の荷物は紙1枚まで減らす癖がある。「捨てなくて良かった」である。
05:05 タイ航空のカウンターから10メートルも離れていない入国審査場を通過。
05:15 保安検査場を通過。6月のときは羽田からの機内でもらった手つかずの水のボトルをここで捨てる羽目になった。 だから今回は、ミネラルウォーターは羽田での搭乗直後と朝食のときと、2回とも断っていた。飲み物は羽田で買ったソーダ水だけで充分だった。保安検査場を抜けたところでは、忘れ物、落とし物は無いか、入念に振り返った。TG130の搭乗口がA7であることは、途中の売店脇の表示板で知った。
05:20 A7ゲートに達する。
07:32 2時間以上を待ってようよう搭乗開始。外へ出てバスへ向いつつ「いやー、気持ちいいねー、いよいよだ」と、思わす独り言が口を突いて出る。
07:42 すぐそばに横付けされたバスからタラップを上がる。即、係のオネーサンに許可を得て、すぐ脇の洗面所に入る。席は窓際55Aのため、飛行中は動きたくないのだ。
08:44 Airbus A320-200(32S/3203)を機材とするTG130は、定刻に34分も遅れてスワンナプーム空港を離陸。
活字中毒でも機内に本は持ち込まない。活字は日本経済新聞の直近の書評と数日以内に興味を惹かれた紙面のみ。それを抜き出し四つ折りにし、クリアファイルに挟んでザックに入れている。9月21日の「リーダーの本棚」は小池百合子。彼女の座右であるというアルビン・トフラーによる「第三の波」の監訳者が徳岡孝夫と知って「へー」と意外の念に打たれる。
機はほぼ安定して飛び続け、やがてチェンライの郊外が見えてくる。今月12日には、チェンライ県を襲った洪水により、空港も閉鎖をされたという。その洪水の跡を見つけようと、窓に顔を近づける。
09:42 TG130は定刻より13分はやくメイファールンチェンライ国際空港に着陸。
09:59 回転台から荷物が出てくる。
10:01 スーツケースのX線による検査を受けてロビーに出る。
チェンライの空港では、国際線乗り継ぎ客の荷物の出てくる回転台にもっとも近い口を出ると、右手にタクシーの手配所がある。そのブースのオネーサンにホテルの名を告げる。オネーサンは即、ちかくにいたオジサンに声をかける。オジサンはオネーサンに、金額は分からなかったが紙幣を渡した。オネーサンは僕に「料金は200バーツ」と告げる。この価格はコロナ前と変わっていない。タクシーの運転手がオネーサンに手渡したのは、公定の紹介料だと思う。
10:08 タクシーが走り始める。車内のカーステレオからはタイの演歌が盛大に流れている。 道はまるで黄砂が積もったように茶色い。多分、洪水によって泥がアスファルト上に満ちたのだろう。その乾いた泥が風に舞って、外はとても埃っぽい。路傍のそこここには、洪水により使い物にならなくなった諸々が積み上げてある。しかしこの被害も、更に北の国境地帯にくらべれば、随分と軽かったのだ。
10:25 市中心部のホテルに着く。代金の200バーツは運転手に直に支払ったこともあって、チップは手渡さなかった。
チェックインは書類への記入もなく簡単に終わった。スーツケースを3階の部屋まで運んでくれたベルボーイには40バーツのチップ。ベルボーイは開いているカーテンを閉め、クーラーのスイッチを入れた。南の国では温帯以北とは異なって、日当たりの良さはむしろ忌避される傾向にある。
僕は旅に豪華さは求めない。むしろその逆と言っても良い。しかし今回のホテルにはクローゼットが無かった。セキュリティボックスも無い。その点だけは、ちと困る。貴重品は、スーツケースに入れて鍵を掛けるしかないだろう。
シャワーを浴び、腰にバスタオルを巻いて、既にして完成しているおとといの日記を公開する。それからきのうの日記に取りかかる。朝食は2食を食べているものの、そのうち空腹を覚えて堪らなくなる。時刻は11時45分。Tシャツを着てタイパンツを穿き、”KEEN”のゴム草履に足を入れる。
ホテルから目抜き通りに出て左へ歩く。すぐの交差点を左折してジェットヨット通りを右折。時計台を目指して北上すれば、右手にワンカムホテル、左手にはいつもの汁麺屋が営業中だった。僕の注文はバミーナムニャオ。カオソイと並んで北の名物であるこの麺の名店はチェンライにはいくつもあり、ある年には食べ歩きもした。その結果、僕には便利な場所にあるこの店のそれで充分と判断するに到った。辛さについてはどうなのだろう。「容赦ない」とも感じるし「それほどでもない」とも感じる。しかしからだは正直で、たちまち頭と顔から汗が噴き出てくる。価格は40バーツだった。
帰りは別の道を回って3軒ある両替所のレートを見ていく。気温は25℃くらいだろうか。バスターミナルの日陰に入り、ふたたび道へ出る。自転車が欲しいけれど、目に付いたレンタル屋はジェットヨット通りの1軒のみで、貸しているのはスポーツタイプのものばかりだった。それはさておきレートは3軒のうちバスターミナルの先の”Superrich Exchange Chiang Rai Night Bazaar”が1万円あたり2,237バーツでもっとも良かった。とはいえ民主党政権の時代はとんでもない円高で、1万円が4,000バーツ以上になったのだから、隔世の感は否めない。
部屋に戻ってシャワーを浴び、先ほどの薬味に使われていた生の玉葱の匂いをリステリンで洗う。ふたたび外へ出て、目と鼻の先の、2014年から行きつけのマッサージ屋”PAI”で2時間のオイルマッサージを受ける。料金は600バーツ。オバサンには100バーツのチップ。
またまた部屋に戻り、きのうの日記に引き続いて今日の日記のここまでを、18時12分までかかって書く。右手の窓の外は、気づけば随分と暗くなってきた。6月に残して持ち帰り、今回の荷物に含めたラオカーオを冷蔵庫から出す。そして今朝の、チェンライまでの機内で配られた水のペットボトルに小分けする。それと専用のステンレス製のコップをセブンイレブンのトートバッグに入れて外へ出る。
ナイトバザールの入口左側で甘味を売るオバチャンは、10年以上も前からまったく老けない。道の両側の、土産物を売る屋台は準備中のところもあり、夜はこれからなのだろう。
目抜き通りからナイトバザールに入ると、先ずは最初の野外レストランが左手に現れる。ここは雰囲気は最高ながら、僕はよほどのことがないかぎり使わない。無意識に避けている理由をつらつら考えてみれば、地元の庶民が客としていないから、ということになるだろう。その先を左に折れ、やがて右手に見えてくる黄色い椅子とテーブルを置いた広場へ向かう。僕が頻繁に使うのはこちらで、2009年から通っている。
中国の団体様々なのは、いずこもおなじ。香り野菜や肉を土鍋で煮るチムジュムは金属製の大きな鍋に変わり、シャム湾からは800キロメートルも離れているにもかかわらず、具には巨大なロブスターなど派手なものが目立つ。そんな店の中に、以前と変わらない土鍋でこれを売る店を1軒だけ見つける。価格は15年前の80バーツから100バーツを経て現在は120バーツになっていた。注文をすると、刺青だらけのオニーチャンは「スパイシー? ノースパイシー?」と問う。当方の答えは「スパイシー、ナ」に決まっている。この鍋を肴にして、別の店で買ったソーダと氷で持参のラオカーオを割る。気持ちがみるみるほどけていく。この街にいられるのは、いつまでだっただろう。
徒歩で数分のホテルに戻り、フロントで部屋の鍵を受け取る。以降のことは、よく覚えていない。
朝飯 TG661の機内食、TG130の機内スナック
昼飯 「ラーン・ポージャイ・カオソーイガイ」のバミーナムニャオ
晩飯 ナイトバザール奥のフードコートのチムジュム、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)