2023.4.22 (土) タイ日記(5日目)
1時30分に目を覚まし、以降はずっと起きている。きのうの就寝が20時すぎだったことを考えれば、これで睡眠は充分なのかも知れない。
既にできているおとといの日記の「公開」ボタンをクリックする。続いてきのうの日記を完成させる。それでも時間は充分ある。首都で使う予定のたまり漬、また片山酒造の日本酒は、できるだけ長く冷蔵庫へ入れておきたいところだが、それも含めて荷作りを完了させる。
片山酒造の2本は、今日の夕刻に飲むことにしている。そうすれば、スーツケースには大分、余裕ができるはずだ。その空間を満たすのは社員への土産だろうか。しかしこの土産というのが僕にとっては厄介だ。買い物は苦手なのである。
6時45分にロビーへ降り、チェックアウトをする。1,000バーツのデポジットは、シャツや下着や靴下など計7点の洗濯代を引かれて200バーツが戻ってきた。団体客のものらしい沢山のスーツケースを載せたワゴンの脇に立つベルボーイに「7時にリムジンが来ます」と声をかけてスーツケースを托す。
やがて7時が過ぎる。先ほどのオネーサンにリムジンの予約票を見せ、どうなっているかを訊く。オネーサンがどこかに電話をしはじめる。そのうち団体客を送り出したベルボーイが外から戻ってきて、リムジンが待機している旨を僕に伝える。僕はリモアのスーツケースを曳くベルボーイに、グレゴリーのデイパックも預ける。リムジンはトヨタのカムリだっただろうか。ベルボーイには20バーツのチップ。
07:05 リムジンがホテルを出発。リムジンとはいえ運転手は下はジーンズ、上はチェックの半袖シャツ。両手首には数珠やらブレスレットがいくつも巻かれている。
07:28 警官による車体検査を経てハジャイ空港着。
07:30 持ち物をエックス線装置に通し、自分は金属探知の枠を抜けて空港内に入る。
07:35 チェックインを完了。
この空港では、機内預けの荷物をチェックインカウンターちかくのエックス線のコンベアまで自分で運び、自分でそこに載せる仕組みになっている。それをタイ航空の職員に教えられ、言われた通りにする。タイ南部ではときおりイスラム教徒によるテロ行為が起きる。それゆえの、警備の厳しさだろう。
マスクの着用率は、空港の職員は全員。それ以外の人たちも、ほぼ100パーセント。よって自分もザックからマスクを取り出し、それをかける。僕はノンポリだから、頑なにマスクを着けないなどの「思想の誇示」はしない。コロナ禍におけるマスクを、僕はドレスコードと考えている。であれば、まわりに合わせるだけのことだ。
保安検査場を抜けて2階の出発ロビーへ出る。しばらくすると、あれこれの宣伝を映し出していた大きなディスプレイが、これまでとはまったく異なる音を発し始めた。時刻は8時。とすれば流れている音楽は国王賛歌だろう。それが終わるまで起立をしていたのは、僕も含めて全体の5パーセントくらいだっただろうか。
ふと右手を見ると、壁に”Coral”と書かれたラウンジがある。ひょっとして僕の持つ”PRIORITY PASS”でも入れるところではないかと考え、そこまで歩いて受付のオネーサンにカードを差し出す。そして中級ホテルの朝食、といった程度のそれを食べる。これでリムジンの800バーツのいくらかは取り返した気分になる。
08:51 搭乗開始。
09:23 “AIRBUS A320-200″を機材とする”WE260(TG2260)”は定刻に18分おくれて離陸。
今日の首都の雲は低い。というか、初日の朝にも見た霞のようなものが大気に満ちている。
10:39 定刻に4分おくれてスワンナプーム空港に着陸。沖駐めのため空港ビルにはバスで運ばれる。空港の建物に露出配管によるかなり太いパイプが吊り下げられているのは、設計時には想定していなかった雨水対策だろうか。
11:40 着陸から1時間を経てようやく荷物が回転台から出てくる。
スーツケースを曳いて1階へ降りる。表示に従って外へ出てタクシー券を発券機から排出させる。その券の番号59に従って、タクシーの列の前を歩いて行く。やがて59番の枠に駐まったタクシーを見つけ、運転手に声をかけ、その後席に乗り込む。運転手は僕のスーツケースが機内持込サイズであることから、それをトランクではなく僕の座関の脇へ置いた。
「ラマ4世通り。ルンピニー」
「500」
「メーター」
「メーターならメータープラス100。OK?」
前回がいつだったかは覚えていないけれど、そのときも、運転手には初っぱなに「500」と言われた。最近、この手の運転手が少なくない。その場で降りて発券機のところまで戻る手もあるけれど、それも面倒なため同意をする。
僕は、人に心付けを手渡すことをむしろ好む。今回、タイに入ってから使ったチップは今朝までに1,010バーツ。しかし要求されて出すそれは、あまり気持ちの良いものではない。
ホテルのある通りの名は、Googleマップでは”Ngam Duphli”と表示をされている。これを棒読みしても、タイ人には通じないだろう。よって親指と人差し指で地図を拡大し、タイ語で表記されているピナクルールンピニーホテルにフラッグを立てる。しかしそれは分かりづらいらしく、運転手は自分のスマートフォンを取り出し、こちらでフラッグを立てるよう言う。しかしその地図は航空写真に設定され、しかもすべての説明はタイ語だから、とても分かりづらい。それでも何とかホテルを探してフラッグを立て、運転手に返す。
「1時間かかるね」
「ホント?」
「そう」
11:50 タクシーがスワンナプーム空港の駐車場から空の下に出る。運転手はGoogleマップを出したスマートフォンの他にもう1台を左手に持ち、誰かと会話を始めた。視線はそのスマートフォンに落としがちで、クルマは三車線の真ん中の、しかし右に寄りすぎて疾走する。僕はあらためて、シートベルトを締め直す。
最初の料金所が迫ったところで運転手に料金を求められ、25バーツを手渡す。しばらく行くと左手にランプが見えてきて、運転手はここで降りようかと身振りで示す。僕は「分からない」と答える。場所はフワマークのちかくだった。
12:11 バンカピのランプからラマ9世通りに降りる。渋滞がひどい。
12:21 マッカサンの交差点を左折。
12:30 アソークの交差点を南へ通過。ここで道が一気に空く。
12:35 クロントイでふたたび渋滞。
12:37 ラマ4世通りに入る。
ホテルへの小路の入口が見えてくる。運転手は「どんなもんだ」と笑顔で僕を振り向く。Googleマップがあるのだから、辿り着くのは当たり前である。ホテルへの入口を過ぎたところでクルマを駐めるよう、慌てて言う。メーターは345。運転手は「450」と叫び、外へ出て右側の扉を開け、僕のスーツケースを持ち上げた。こういうところだけは、タイの運転手は感心である。僕は財布から445バーツちょうどを取り出し「445」と運転手に叫び返す。運転手はおおらかに笑い声を上げた。時刻は12時42分。空港からは52分の行程だった。
チェックインをしつつ、できるだけ高い階をフロントのオバチャンに要求する。オバチャンは屋上プール直下の13階の一室をあてがってくれた。どうやらこのホテルにベルボーイはいないらしい。エレベータで13階に上がると、廊下の窓の一部が開いている。つまり廊下の気温は外気温とおなじだ。部屋は中級ホテルのそれ、いや、中の下、といったところだろうか。しかし僕は、この手のホテルが嫌いではない。落ち着くのだ。「使わないものは要らない」のである。
部屋からは、初代がガイヤーンの屋台から身を起こしたいう珍平酒楼が真正面に見下ろせた。その右手にはラマ4世通りが走っている。部屋の冷房はなかなか効かない。ここでもまた、部屋を自分の好みに作りかえる。
そんなことをしながらランドリーバッグと洗濯物の記入表を探すも、どこにも見あたらない。フロントに降りて訊くと、このホテルはランドリーサービスをしていないと、先ほどのオバチャンは言う。更に訊ねたところによれば、ホテルを出て右手の中華料理屋の隣に洗濯屋があるという。それならそれで好都合だ。
部屋へ戻り、きのうから今現在まで身につけていたシャツや下着、靴下をプラスティック袋に入れて外へ出る。洗濯屋はすぐに見つかった。洗濯屋は洗濯機1台で商売をする小規模なもので、留守番のオバーサンはタイ語しか話さない。オバーサンは洗濯物を計りに載せる。重さは500グラムと少々。オバーサンの指す、引き戸に貼られた「1kg 120B」の紙に従い、120バーツを払う。120バーツとは実に、今朝まで泊まっていたハジャイのホテルのTシャツ1枚の洗濯代よりも安い。左腕の時計を差し示しつつできあがりの時間を訊くと、オバーサンは21時のあたりを指した。僕は時計の文字盤をクルクルと丸くなぞり、理解はされないだろうけれど「明日の朝に来ます」と伝えた。
洗濯屋を出ると、その洗濯屋やホテルの前の道を奥へ進んでみる。1982年1月にバンコクからコロンボを経由してマドラスに飛ぶ航空券を買った”J TRAVEL & TRADING”が健在で、大驚きをする。1980年の1月だか2月に泊まったマレーシアホテルは、化粧直しがほどこされていたものの、建物は当時と変わっていなかった。何もかもが懐かしい。そしてすこし先まで足を延ばし、部屋に戻ってシャワーを浴びる。
さて同級生のコモトリケー君とは事前の打ち合わせにより、16時10分発の舟に乗ることとしていた。船着場までは大した距離ではないものの、渋滞が怖いからタクシーではなく、公共交通機関を使うこととして15時10分に部屋を出る。気温は昼のハジャイに劣らず高い。地下鉄MRTと高架鉄道BTSを乗り継いで15時51分にサパーンタクシン着。そこから徒歩で15時55分にサトーンの桟橋に着く。バンコクも、ここまで来れば川風が涼しい。コモトリ君の住むコンドミニアムの舟は、16時14分に桟橋を出て、16時23分にコンドミニアムに横付けをされた。
今回の旅のもっとも大きな目的は、2020年4月30日に急逝したカタヤマタカユキさんの蔵のお酒をバンコクへ持参し、カタヤマさんの高等学校の同級生で、パタヤに住むカトリアキナリさんとそれを飲む、というものだった。世の中は狭いもので、コモトリ君はカトリさんの大学の先輩に当たる。そしてまた偶然にも、カトリさんが指定してきた店は、コモトリ君の家とはチャオプラヤ川を挟んだ目と鼻の先だった。
17時すぎの舟で対岸に渡る。バンコクの典型的な下町、いや、それ以上に込み入った細い道を、オートバイやクルマを避けつつ歩く。そして”RIVER VIEW RESIDENCE”という小さなホテルの8階へ上がる。そこは”RIVER VIBE”というレストランで、見晴らしは最高に良い。間もなくここに泊まっているカトリさんが姿を現す。先ずは4合瓶を、コモトリ君が頼んだアイスバケットで冷やす。そして日本に帰ったらパウチをしてカタヤマさんのお母さんに手渡すべく、夕陽を背に写真を撮る。冷えた「初代久太郎」は僕よりも、カトリさんの心に、より沁みただろう。
舟が迎えに来るシープラヤの桟橋に立つと、サトーンの方角に花火が上がり、それはしばらく続いた。カトリさんもコモトリ君の家に同行し、ここではおなじ片山酒造の焼酎「粕華」をソーダで割って飲む。応接間の大きなテレビからは、マイルス・デイヴィスの”Jack Johnson”が流れている。バンコクの夜が更けていく。
「こちら岸」のタクシーも「あちら岸」のタクシーも、チャオプラヤ川をまたいでクルマを走らせることを嫌う。コモトリ君とカトリさんは「300バーツ」などという運転手をジャルンナコン通りで幾人かやり過ごした後、ようやくまともな1台を見つけてくれた。ホテルに着くとメーターは105バーツ。120バーツを出すと若い運転手は「ノーノーノー、100」」と驚くべきことを口にした。仕方なく100バーツ札は手渡し、20バーツ札は彼のシャツの胸ポケットに無理やりねじ込んだ。中にはこういう運転手もいるのだ。
部屋へ戻ったのは22時26分。その記憶はiPhoneに残した画像による。以降については何も覚えていない。
朝飯 ハジャイ空港コーラルラウンジのあれこれ、コーヒー
昼飯 “WE260(TG2260)”の機内軽食
晩飯 “RIVER VIBE”の燻製鴨のサラダ、ソムタムパラー、マッサマンカレー、ローティ、「片山酒造」の「初代久太郎純米大吟醸」