2022.4.18 (月) 春眠不覚暁(続)
きのうの日記の「多少」については、おととい朝食を摂りながら、マルヤマタロー君にも訊いてみた。北京語の専門家として役所を勤め上げたマルヤマ君によれば、中国語の「多少」は「多い」よりも、むしろ多寡を意味する言葉だという。
有名な「春暁」の日本語訳を見ると、4の句の「花落知多少」には「花はどれくらい落ちてしまっただろうか」とあって、この場合の「多少」は確かに多寡をあらわしている。
一方「江南春」の4の句「多少楼台烟雨中」の訳には「たくさんの寺の楼閣が春の霧雨にけぶっている」が見受けられて、これなら「多少」はやはり「多い」ということになる。
それにしても「江南春」の2の句「水村山郭酒旗風」とは、酒飲みには堪えられない風景だ。杜牧の生きた時代は9世紀。蒸留器の誕生は紀元前でも、それが中国に伝わったのは宋代とのことだ。よって杜牧の見た「酒旗」の下では白酒ではなく、黄酒が飲まれていたのだろう、多分。
いま、家に黄酒の買い置きはない。そういう次第にて、夜はカレーライスを肴にして白酒を少しばかり飲む。
朝飯 煮奴、納豆、筑前煮、揚げ湯波と蕪の葉の炒り煮、柴漬け、らっきょうのたまり漬、ごぼうのたまり漬、メシ、若布と玉葱の味噌汁
昼飯 スパゲティ
晩飯 キャベツと人参のサラダ、らっきょうのたまり漬、カレーライス、「紅星」の「二鍋頭酒」(生)