2021.6.15 (火) 副反応
空は晴れている。気温の低いはずはない。しかし二の腕に何とはなしの肌寒さを感じる。頭の皮膚と頭蓋骨のあいだのところどころに、20分に1度ほどの頻度で「ピクリ」と痛みを感じる。ことによると仕事を抜けて休むことになるやも知れない旨を、朝礼では皆に伝える。
それから10分もしないうちに自宅へ戻り、食器棚の引き出しから体温計を取り出す。体温は38度1分だった。とすれば、安静にしていた方が良いだろう。というわけで一旦、店に降り、家内や長男に事情を話してふたたび自宅に戻る。更には風邪のときに処方されて余っていたカロナール300を3錠、服用する。
このところ早朝に読んでいる「一戔五厘の旗」は大きすぎて適当ではないから、それと平行して読んでいる徳岡孝夫の「五衰の人」を寝室には持ち込んだ。
1966年、46日間という異例の長さに亘って自衛隊に体験入隊した三島由紀夫を、徳岡はサンデー毎日の記者として取材する。翌年、徳岡は特派員を命じられてバンコクへ飛ぶ。一方、三島は「暁の寺」の取材のためインドを経由してタイに入る。彼はこのとき前年に続いてノーベル文学賞の有力な候補者であり、帰国をすれば取材攻勢が待っている。それを避けるためつかの間、三島はバンコクに逗留する。その機を逃すまいとした本社は「直ちに会って、受賞に備えた予定談話を取れ」との電報を徳岡に急送する。
2年続きの大騒ぎに辟易していた三島は、その取材を断る。しかしバンコクでひとり無聊をかこっていた彼は「これ幸い」と、徳岡を若い友人として熱帯の昼夜を楽しみ始める。
それはさておき徳岡はこのとき、取材に先だって、三島が滞在しているホテルを探す。「知名度からいえばオリエンタルだが、政府観光局経営のエラワンの方が格が上である」と予想をして、それは一発で当たった。当時のバンコクに、選択肢はそれほど無かったのかも知れない。
前述のように、三島は徳岡の案内によりバンコクを探訪する。しかし三島も徳岡も、ただ遊んでいたわけではない。三島は「薔薇宮」の取材許可が下りないと、徳岡にこぼす。「私はもう顔パスで入っている」と、徳岡は仲介を約束する。しかし結局のところ、タイ外務省の、普段は協力的な情文局長は、徳岡の頼みを断る。インドシナはドミノ現象の渦中にあり、1967年当時「薔薇宮」にはタイ国内に頻発する共産主義運動を鎮圧するための本部が置かれていた。三島はバンコクに滞在中、ルアンパバーンまで足を延ばす。そしてマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」が愛読書だったサワーンワッタナー王と親しく歓談をしている。王が再教育キャンプで亡くなるのは、それから約10年後のことだ。
それはさておき、この「薔薇宮」とはどこのことだろう。いくら検索エンジンに当たっても、それらしいところは一向に出てこない。いつか突き止めて、ちょっと覗いてみたい。もう一点、この本はバンコクで読みたかった。いずれにしても、次にタイへ行くときには、僕はこの本を持参するだろう。
夕刻の体温は37度8分。朝に続いてカロナール300を3錠、服用する。
朝飯 ハムエッグ、菠薐草の胡麻和え、納豆、生のトマト、蓮根の梅肉和え、蕪と胡瓜のぬか漬け、メシ、長葱とアイスプラントの味噌汁
昼飯 昆布の佃煮と梅干のおむすび、ごぼうのたまり漬
晩飯 ブロッコリーの胡麻和え、炒り豆腐、南瓜の煮付け、刺身湯波、蕪と胡瓜のぬか漬け、トマトのすり流し