2017.3.10 (金) タイ日記(2日目)
「ホーウィ、ホーウィ」と、昨年ナラティワートで啼いていた鳥の声を、ここでも聴く。朝の街を托鉢の僧が往く。ベランダから戻り、このゲストハウスの主人がよかれと考えて置いただろう調度品を片づけて、部屋を自分の好みに変える。古いミシンを改造した机は、コンピュータを使うにはうってつけの高さである。
朝食は4種の中から選べる。もっともカロリーの高そうな”ABF”を僕は選ぶ。3つある部屋に対して泊まっているのは僕ひとり。通りに面したガラス張りのカフェスペースで、しばしゆっくりする。
きのうオカミが教えてくれた藍染めの工房について、更に詳しく訊く。”Kaewwanna”という工房の名は、日本にいるときの下調べにより、既にして聞き覚えたような気もする。その場所は、宿の面するチャロンムアン通りをひたすら南東へと直進し、空港を過ぎて、スーパーハイウェイの手前の左側。距離にして3、4キロだという。
1982年のカトマンドゥには、貸し自転車といえば中国製の、大きく重たいものしかなかった。僕はそれで、1日に30キロほどは走り回った。しかし35年もむかしのことだ。いまの僕に、炎天下の8キロをこなすことはできるだろうか。モータサイを使うことも考えたけれど、自由度を考え、宿の自転車を借り出す。
変速の効かないギヤはかなり高く設定されているにも関わらず、自転車の漕ぎ心地は悪くない。空港を過ぎたあたりから「本当に行き着けるだろうか」と不安になってくる。そして遂にスーパーハイウェイの手前まで来てしまう。仕方なく戻ろうとして、安全な横断場所を探しているとき、左手の林の中に”Coffee Park”という看板を見つける。気になって数十メートルを進んでみると、その林が果たして藍染めの工房”Kaewwanna”だった。
宿のオカミによれば、今日はオーナーは不在。明日ならオーナーもいるし、ちょうどランナースタイルを専門にするアーティストも来るとのことだった。しかし人との交流をあまり好まない僕にとっては、今日の方が好都合である。
工房には女の人がふたり、留守番をしていた。タイパンツをあれこれ見せてもらうも、僕の気に入るものは無い。僕が欲しいのは一般大衆が身につけるそれで、いわゆる「デザイン」や「アレンジ」は要らないのだ。しかし何も手に入れずに帰れば、何やら後悔をしそうな気もする。よって女物のシャツ1着を買う。価格は、僕が日本から持って出たバーツの1割を超えた。「本物は顧客を選ぶ」ということなのだろうか。
来た道を快調に戻る。途中で左側に市場を見つける。自転車を、日本から持参したワイヤーロックで道ばたの道路標識に繋ぐ。そしてその、中へと入ってみればかなり清潔で広い市場の奥まで歩き、ひと回りして戻る。
心配が先に立った自転車での行動だったが、それほど大変なものでもない。当方には勢いがついているから、宿の前を通り過ぎ、そのまま旧市街に直進する。更にはそこも通り抜けて、ヨム川を渡ったところでようやく引き返す。
プレーに来た目的は3つある。
僕は中世以前から戦乱を繰り返したインドシナの、環濠と土塁により守られた古い、それも小さな街が好きだ。瓢箪型の旧市街がぐるりと土塁に囲まれたプレーの地図を”LONELY PLANET”で見たときから「この旧市街をひと回りしないわけにはいかない」と考えてきた。
ヨム川からチャロンムアン通りを旧市街の北の入口まで引き返すと「ナーン、パヤオ、チェンライは左」の標識が見えた。よってこの小さな交差点を起点として、旧市街を右回りに一周することにする。
“LONELY PLANET”でも、また「地球の歩き方」でも地図には示されていない、しかし古いお寺を右手に見ながら進む。やがて旧市街の東端、瓢箪の小さな玉の先にあたる場所に達する。ここからしばらく行くと、右手に刑務所らしい建物が見えてくる。そのすこし先に自転車を停め、土塁に上がってみる。旧市街の北東側である。環濠は空堀のところもあるけれど、このあたりではいまだ満々と水を湛えている。
土塁から降り、自転車を押しながら、その環濠に掛けられた橋を渡る。ちかくで見るとその環濠には、インドシナの例に漏れず、魚が押し合いへし合いをしていた。釣りをする人がいる。釣れなければ不思議なほどの魚影の濃さである。
「勝利の門」つまり夜には屋台街になるところから、今度は旧市街の西側に銀輪を向ける。その西端、つまり瓢箪の大きな玉の先にあたるところには、これまた地図には示されていないものの”WAT SRIBUNRUEANG”という名の大きなお寺が、旧市街の端を守るようにしてあった。ふたたび土塁に上がると、涼風はこの高さにのみ吹きわたっていた。
旧市街を更に右へと巻いて行く。途中、洗濯を生業としている家が左手にある。土塁下部のレンガの壁を使って干されているタイパンツを見て「そう、オレが欲しいのは、こういう普通のやつなんだ」と、顔も名前も知らない、このパンツの持ち主を羨ましく思う。
そうして遂に先ほどの、「ナーン、パヤオ、チェンライは左」の小さな交差点に戻る。旧市街を周回する道の延長は、5Kmほどではなかったか。
時刻は正午にちかい。ホテルに戻り、冷えた水300ccほどを一気に飲む。シャワーで汗を流し、ベッドで休む。
プレーはまた、藍染めの産地でもある。プレーに来た目的のふたつ目は、本場の藍染めによるタイパンツを手に入れることだ。これについは明日にでも捲土重来を期すこととする。
最後のみっつ目は、プールサイドでの本読みである。僕は南の国においては、プールサイドで本を読まないことには気が済まない。しかし今いる宿は3部屋のみの小さなもので、プールなどは望むべくもない。
午後、ふたたび自転車にまたがり、この街でもっとも大きいと思われるホテル「メーヨムパレス」を訪ねる。「僕、ここに泊まってるわけではないんですけど、お金、払えばプール、使えるんですかね」と訊いてみる。オネーサンはにっこり笑って「はい、大丈夫です。料金は60バーツです」と答えてくれた。明日と明後日は雨でも降らない限り、ここに来ることにしよう。
今日はここまでで15km以上は自転車で走ったように思われる。しかし腹は減らない。それでもやはり、昼食は抜かない方が良いだろう。チャルンナコン通りを帰る途中の右手に「閣心紫堂善心一府巾白挽」という赤い看板が目につく。すこし感じるところがあって、その、まるで昼寝でもしているような一角に足を踏み入れてみる。果たしてその突き当たりの右側に、割と大きな食堂があった。席に着き、バミーヘンを注文する。そのバミーはかなり美味かった。「プレーの昼飯は、帰るまでずっと、ここでいいや」という気分になる。
ふたたびチャルンナコン通りを戻りつつ、中華旅社のあることに気づく。名前は”TEPWIAN”。壁の銘板には「天宮両合公司」とある。フロントのお婆さんは、英語は解さないだろう。その娘らしい人に案内を請うと、部屋を見せてくれるという。2階に上がってはじめて、ここがかなり大きな旅社だということを知る。部屋に冷房はなく扇風機のみ、そして冷水によるシャワー。料金は1泊120バーツとのことだった。1980年代はじめの為替に照らしてみても、あの楽宮大旅社より3割も安い。しかも楽宮と異なり、掃除はかなり行き届いている。今より30歳ほど若ければ、大喜びで泊まっているところである。
宿に戻ってシャワーを浴び、またまた休む。そして18時をかなり回ったところで外に出る。プレーを田舎と感じるのは、この時間にして既に人の姿のほとんど見えなくなることによる。先ほど”TEPWIAN”の若オカミが教えてくれたマッサージ屋”HAPPY HEALTH SPA”の前まで行くと、あるじらしい女の人が声をかけきた。
2時間400バーツのタイマッサージにしようとしていたところ、特殊配合のハーバルオイルを用いるコースは2時間1,000バーツが、現在はキャンペーン中で700バーツだと薦める。特殊配合のハーバルオイルになど興味はないものの、僕も日本人であれば、妙に格好を付けるところがある。よってその700バーツのコースを、物静かで太ったオネーサンに受ける。
特殊配合のハーバルオイルはやはり、どうということもなかった。それはさておき、100バーツのチップを差し出されて、これほど驚き、嬉しそうな顔をしたマッサージ嬢は、今日のオネーサンが初めてである。
“HAPPY HEALTH SPA”とは目と鼻の先の宿には寄らず、そのままきのうの屋台街まで歩く。そして今夜は父と息子で営んでいるらしい注文屋台にてガパオ飯を頼み、これを肴にしてラオカーオを飲む。
朝飯 “Gingerbread House Gallery”のアメリカンブレックファスト
昼飯 名前を知らないクイティオ屋のバミーヘン
晩飯 「勝利の門」前の屋台街の注文屋台のカーオパッガパオムーカイダーオ、ラオカーオ”Black Cook”(生)