2020.3.4 (水) タイ日記(3日目)
暗闇に目を覚まし「きのうとおなじ2時を過ぎたころだろうか、あるいは3時は回っただろうか」と考えながら、目はつぶったままでいる。
部屋の窓から大きな駐車場を隔てて250メートルほど先には、タイ特有のライブハウスであるタワンデーンが位置している。ベランダの直下には、きのうの日記にも書いたバービヤの集合体”Day & Night”がある。ホテルの建つサンパンタミット通りは、これまたバービア街だ。スピーカーの重低音は、それらのいずれかから発せられているものだろう。大柄な白人による野太い声も聞こえる。更にはトタン屋根を叩く雨もかまびすしい。
それらの音を数十分ほども聞き続けてから、サイドボードのiPhoneに手を伸ばす。時刻はいまだ、日の改まっていない22時26分だった。睡眠時間が2時間では話にならない。しかしどうにも気になる外の騒音である。
いくらかは眠れたかも知れないけれど、熟睡はしてない。とにかく4時に起床する。既にして書けていたおとといの日記に修正を加えつつ公開する。きのうの日記も完成させる。その勢いを保ったまま、今日の日記のここまでも書く。
朝食を済ませ、8時30分を過ぎるのを待って、ここ数日の洗濯物を提げて外へ出る。そしてきのう開店時間を確かめておいた、ホテルとおなじ通りにある洗濯屋に出かける。ポロシャツ2着、下着2着、靴下1足の洗濯代は31バーツ。「明日の午後1時か2時」と告げながら、なかなか上品な顔つきの女主人は僕に伝票を手渡した。
それにしても、雨上がりの街は、僕のインドシナに対する感覚からすれば異様に涼しい。部屋のベッドに横になって本を読む。そして薄日の差してきたことを確認してから水着に着替え、プールサイドに降りる。寝椅子はほとんど乾いていた。時刻は10時30分。そこでまた石川文洋の「ベトナムロード」を開く。
ときおりポトリ、ポトリと音を立てて、頭上の木から花が落ちる。昨年のいまごろ訪ねたスコータイのホテルにも、この花が咲いていた。通りかかったホテルの人に花の名前を訊く。オニーサンとオジサンのあいだくらいの歳の人は「チャ(ツァ)ンパー」と教えてくれた。プールサイドには、白と赤のそれがある。白い方が圧倒的に、その甘い香りは高い。
「今日の昼は200ページまで」と決めて読み始めた本の176ページに「スアンロクは、一九七九年四月、猛烈なスピードで進撃をするベトナム人民軍とそれを阻止する最後の砦としてサイゴン政府軍との激戦が交わされたが」の一節がある。サイゴン陥落は1975年4月30日。だからこの「一九七九年四月」は明らかにおかしい。
区切りの良い201ページまで読んで部屋へ戻り、シャワーを浴びてからベッドに横になる。そしてiPhoneにgoogleを開いて「ベトナム戦争 スアンロク」と入れてみる。スアンロクの戦闘は果たして、1975年4月9日から同21日にかけての出来事だった。編集者は何をしていたのだろう。
「ペンが袋から落ちかけている」と初日に声をかけてくれたオバチャンのいるマッサージ屋に、今日も出かける。それは「タイマッサージは、3日つづけて受けるべし」という、チェンライのマッサージ師プックさんの言いつけを守ってのことだ。そして2時間のマッサージで、特に脛とふくらはぎを責められる。
きのうのカームーには、少なからず落胆をさせられた。失敗は繰り返したくない。初日の朝、空港からのバスを降りたあたりにホイトードの有名な店があることは、日本を出る前から知っていた。「こんなに海から遠いところでホイトードかよ」という思いはあったものの、夜はラオカーオのペットボトルを提げて、雨上がりの街を往く。
店の前の大鍋で炒りつけられる、生まれて初めて口にするホイトードは、評判の通り美味かった。英語のメニュの”Fried Oyster”に添えられたタイ語を店員に読んでもらうと「ホイトードゴンラー」と聞こえた。「ゴンラー」とは、ことによると潮州料理の「蠔烙」の音を、そのまま用いているのかも知れない。
2009年、27年ぶりに叶った訪タイのとき、着いたばかりのスワンナプーム空港で、心躍らせながら食べたパッタイには、そのあまりに甘い味付けに幻滅をさせられられた。以降はとても食指を延ばす気にならなかったそれを、ホイトードだけでは足りないから、今夜は賭けるつもりで注文してみた。果たしてこのパッタイも、またとても美味かった。さて、明日の夜はどこへ出かけよう。
ホテルに戻ってシャワーを浴びる。時刻は19時20分。盛り場の真ん真ん中にいながら、この時間から寝る馬鹿が僕である。
朝飯 “The Pannarai Hotel”の朝のブッフェ其の一、其の二、其の三
晩飯 “Hoi Tod Je Huay”のホイトードゴンラー、パッタイクン、ラオカーオ”RUANG KHAO”(ソーダ割り)