2020.2.25 (火) 日本人にしては
大学の登山部では、夜明け前の暗闇の中でもアイゼンが付けられるよう、練習を繰り返すという。暗闇の中でもタンスから服を出して身支度を調えられるというのが、僕の密かな自慢である。あるいはそんなことは、誰にでもできることだろうか。
自宅にwifiの電波は飛んでいない。インターネットにはiPhoneを通じてアクセスをする。しかし今朝はそのiPhoneが、ベッドのどこかにはあることは分かっていても、見つからない。よって既にして書けている日記の「公開ボタン」をクリックしたり、あるいは新しい日記を書くことができない。仕方なく英会話の勉強をすることにする。
僕には何か学習障害のようなものがあるのか、ビジネス書などの「利益を得ようとして読む本」は一切、読めない。自己啓発書などの「みずからを向上させようとして読む本」も同じく、読めない。しかし英会話の教則本くらいなら大丈夫だ。現在時刻は5時10分。そして6時10分までは、それを読み、付属のCDを聞く。
「日本人にしては英語を話しますね」と言われたことが、過去に3度ある。先ずはサイパンで、スカイダイビングのオーストラリア人の教官に言われた。次は同級生ウィルソンアキラ君の息子がアメリカから泊まりに来たときに言われた。3度目は、タイ最北部の山中でカレン人の高床式住居に泊まったとき、その家の娘に言われた。
先方は褒めているつもりでも「日本人にしては」の前置きが付いては、めでたさも半減どころか10分の1だ。
教則本に付属のCDの中で”That’s a waste”とアメリカ人が言っている。その”waste”と”waist”の発音の違いは、どんな塩梅だっただろう。アメリカ人は更に”We’ll see wheter the newspaper print the story”と言う。その”wheter”と”weather”の発音の違いは、どのあたりにあっただろう。
タイ語でアヒルはペッ、辛いもペッ。しかしてその違いが僕には分からない。赤シャツ組の頭目で、国を追われた政治家タクシンと、かつての王様タークシンの区別も僕にはつかない。
外国語の習得とは、まことに厄介なものである。
朝飯 牛蒡と人参のきんぴら、納豆、グリーンピースの玉子とじ、揚げ湯波と小松菜の炊き合わせ、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、牡蠣の佃煮、メシ、若布と三つ葉の味噌汁
昼飯 「セブンイレブン」のサンドイッチ、牛乳
晩飯 「やぶ定」の酒肴あれこれ、盛り蕎麦、4種の日本酒(冷や)