2019.5.14 (火) 欲求の漸減と消滅
「自分へのご褒美」とは、なかなか優れた惹句だと思う。贅沢と思われる品も、この魔法のことばを頭に浮かべれば、清水の舞台から飛び降りることができそうだ。
僕は、自分に褒美を与えられるような人生は歩んでこなかった。しかしとにかく馬齢を重ねておととし還暦に至った。褒美は無理としても、還暦祝いなら贈れそうだ。自分がみずからに与える還暦の祝いには何が欲しいか。ひとつはライカQだった。
必要に迫られれば仕方なく一眼レフを使うものの、本来、レンズが交換できる式のカメラは好まない。レンズは広角が好きだ。更には僕は、食べ物を超近接で撮ることが多い。だったらライカの”Q”ではないか。
あるとき泰明小学校のちかくのライカを訪ねて”Q”を触らせてもらった。当然のことながら、質感は申し分ない。しかしこれはハナから分かっていたことだけれど、携帯をするにはいかにも大きく、そして重い。大荷物や重い荷物を嫌う僕がこれを持てば、使う機会はほとんど家の中に限られるだろう。そんな自分には、カメラはリコーGRDで充分だ。そう考えて、ライカQに対する欲求は漸減の後に霧消した。
欲しいもののもうひとつは、グランドセイコーの時計だった。モノは、修理をしながら長く使いたい。これまで「ブランドを引き継いだだけで、以前とは会社が違う」とか「既に部品の供給が止まっている」などの理由により時計の修理を断られてきた経験から、僕は「長く使うならセイコーの三針だ」という結論に至っていた。いまグランドセイコーの時計を買えば、死ぬまで使うことができるだろう。欲しいグランドセイコーは、もっとも低い価格帯の簡素なものだ。
4丁目の服部は敷居が高いから、池袋のビックカメラに行った。そしてグランドセイコーを置いた一角に近づくと、20万円台のそれと50万円台のそれとでは、高級感に極端な差のあることに気づいた。50万円台のそれを目にしてしまうと、これまで欲しかった20万円台のクォーツ式は、いかにも見劣りがする。しかしいくら高級感に満ちているとはいえ、道具としての時計に50万円台の機械式を選ぶ気もしない。そうしてグランドセイコーへの欲求も、ライカQに対するそれとおなじく、徐々に萎んで消えた。
そんな日々から2年と数ヶ月を経た先日、セイコーがソーラー電波修正式の、それも伝統的で簡素な意匠による品を出していたことを知った。しかしその”SBTM159″は既に廃番になっていて、市場にはいくらも残っていない。迷っている時間は無い。そしていまだ在庫を持っているらしいふたつのウェブショップを入念に見くらべながら、遂に購入ボタンをクリックした。
当該の時計は先週の金曜日に届いた。それを今日は街の時計屋”LOOKS”に持ち込んで、ベルトの長さを僕の手首に合わせてもらった。自分の還暦祝いは結局のところ35,800円と、当初の予定の20分の1以下に収まった。セイコーの三針とはいえソーラー電波修正式であれば、死ぬまでは保たないかも知れない。それでも僕は、今回の買い物に、極めて満足をしている。
朝飯 揚げ湯波と小松菜の炊き合わせ、納豆、スペイン風目玉焼き、切り昆布の炒り煮、海ぶどうの酢の物、キュウリのぬか漬け、ふきのとうのたまり漬、メシ、揚げ湯波と若布と三つ葉の味噌汁
昼飯 ラーメン
晩飯 肉団子鍋、芋焼酎「白金乃露」(お湯割り)、いちごの杏仁豆腐、”TIO PEPE”