2019.3.21 (木) 誰か英語の話せる人
「誰か英語の話せる人っ」と、販売係のハセガワタツヤ君が店から事務室に来て声をかける。周りを見まわしてから、おもむろに席を立つ。日本人ではないらしい若い人が、店と事務室を隔てるガラス越しに僕を見る。僕はお客様に安心をしていただこうと、関川夏央の言葉を借りれば水のように、ではなく普通に笑顔を向ける。
「英語の話せる人」と乞われてそのとき社内に僕しかいないという状況は、どうにかしなければいけない。中学校さえ出ていれば、英語は話せるはずなのだ。
旅先でも店先でも…と書いて「旅にも店にも『先』が付くのはなぜだろう」などと考えていては、日記が先に進まない。とにかく僕は、旅先でも店先でも、中学校で教わった以上の英語は話さない。というか、中学校で教わった以上の英語は話せない。なぜかといえば、高等学校に上がって以降はほとんど、脳が働かなくなったからだ。
三島由紀夫が切腹をしたのは1970年11月25日。そのとき僕は中学2年生だった。三島は二首の辞世を遺した。あのとき、テレビのアナウンサーは、おしなべて顔を青ざめさせていたように思う。そんなアナウンサーのひとりが読み上げたその二首の短歌を、いちど聞いただけで僕は覚えてしまった。外国語は、それほど脳の性能の高い時期を外しては、習得は難しい。
いまだ二十代と思われる男性のお二人連れは香港からの観光客で、帰国は今週の土曜日だという。様々な質問にお答えしつつ商品をお勧めする。そうして結局のところ、お二人にはあわせて1万円ほどのお買い上げをいただいた。今市市立今市中学校で英語を教えてくださったウエキ先生とコバヤシ先生には、大いに感謝をしなければならない。
目下の課題は、自分の中学校卒業程度の英語を高等学校卒業程度の水準まで引き上げることだ。しかし「どうすりゃいいの、この私」という気持ちがある。2歳児にも劣るタイ語も何とかしたい。こちらについても「どうすりゃいいの、この私」である。
朝飯 しもつかり、揚げ湯波と小松菜の炊き合わせ、煮奴の「日光味噌のたまり浅漬けの素・朝露」がけ、細切り人参の炒り煮、らっきょうのたまり漬、切り昆布の炒り煮、メシ、揚げ湯波と三つ葉の味噌汁
昼飯 ラーメン
晩飯 トマトとクレソンのサラダ、もつ焼き、もつ鍋、うどん、麦焼酎「黒麹道」(ソーダ割り)