2019.3.8 (金) タイ日記(2日目)
僕の旅の目的は、ほぼ常に「何もしないということをする」だ。しかしすべきことを持つ場合もたまにはある。宋胡録の名物を持つつもりはない。しかし小堀遠州の時代にはるばる海を越えて渡来した、その器の源流を辿ることには隨分と前から興味があった。宋胡録の窯跡には、どのようにして行けば良いのか。
宋胡録の窯跡は、サワンカロークの街から数十キロほど山の中に入ったところにある。バンコクからサワンカロークまでは鉄道が通じているものの、移動の効率は良くない。よって着いたばかりのスワンナプーム空港からいきなりスコータイに飛んだ。スコータイの旧市街からサワンカロークまでは50キロの距離がある。先ずはこれをどう詰めるか、だ。
2016年6月の第1回バンコクMGで知り合ったキモトタカヨシさんが、サワンカロークに住んでいることは知っていた。あるとき検索エンジンに当たっていると、そのキモトさんが現地のタクシーやサムローの紹介業務をしていることが分かった。渡りに舟とはこのことだ。即、キモトさんに連絡を入れたことは言うまでもない。
朝食を済ませて7時25分にロビーへ行くと、キモトさんは既に来ていてコーヒーを飲んでいた。駐車場にはキモトさんの叔母さんの、トヨタの真新しいピックアップが駐められている。
07:45 宿を出発。
08:30 サワンカローク着。
08:55 レームさんの操縦するサムローに乗り換え、サワンカロークを出発。
09:12 「シーサッチャーナーライ国立公園まで10キロ」の標識が出る。
09:25 脇道に逸れて城門のような”TAO MOR GATE”からタマリンドの林に入る。
レームさんが道ばたにサムローを停める。エンジンの音が止むと、木々の風に揺れる音と鳥の啼き声だけが聞こえてきた。レームさんの指さす、小径から30メートルほど離れたところに2基の窯跡が見える。サムローの椅子から降りて、落ち葉の軟らかく積もった斜面を降りていく。
写真では分からなかったことだが、瓢箪型の窯は、人為的に作られた斜面に築かれていた。窯を瓢箪にたとえれば、面積の広い方に焼成前の土器を入れ、その手前から薪を焚く。火は窯の中を駆け上がってくびれた部分を通り、その先の丸いところを煙突として上に抜けるのだろう。一目瞭然、百聞は一見に如かずとはこのことだ。
その”Ban Pa Yang Kiln Site”から更に4キロほど奥へ進んで”Ban Koh Noi Kiln Site”に足を踏み入れる。眼下にヨム川がゆるやかに流れるこの丘には、先のパーヤン村よりもたくさんの、それも時代の異なる窯跡が集まっている。先ずは東屋のオバサンに100バーツを支払って、目と鼻の先の博物館に近づく。入口には「靴を脱いでください」、「発掘部分に降りないでください」、「発掘部分の陶片を拾わないでください」という注意書きがあった。そして42番、続いて123番の窯跡を見る。管理人はひとりのみ、客は僕のみ、である。
博物館のまわりにも、いくつもの窯跡がある。”Ban Pa Yang Kiln Site”にくらべてかなり多くの窯が、この”Ban Koh Noi Kiln Site”には集まっているようだ。時間は充分に取ってある。「レームさんは…」と見ると、巨木の陰の東屋で、先ほどのオバサンと世間話をしていた。僕は枯れ草を踏んで斜面を登り、できるだけ多くの窯跡を回る。
来た道を戻りながら、今度は右手にある博物館”Centre for Study & Preservation of Sangkhalok Kilns”も訪ねる。レームさんが僕の見たいところを外さず案内してくれるのは、キモトさんの奥さんのポップさんに、かなり言い含められているからに違いない。その”Centre for Study &…”では、178番窯、そして61番窯を観る。手渡されたパンフレットの、窯に関する部分の英文を僕なりに訳せば以下になる。
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最も初期のタイプの窯は、11~12世紀ころコーノーイ村に現れた。それらは地下に掘られた塚のようなもので、陶器の焼成室と焚き口を分けるための壁はいまだ無かった。14~15世紀になると、窯は地上にレンガによって築かれ、陶器作りに関わる人たちの工夫により、様々な形を持つに至る。そしてここで焼かれた陶器はサワンカローク焼きとして、日本、インドネシア、フィリピンに輸出をされた。
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さて、ここまで来たら残るはシーサッチャナーライ遺跡だ。駐車場には、お土産屋や食堂が鉤の手に並んでいた。レームさんは英語を解さないため、僕の2歳児にも劣るタイ語で「ごはん、一緒に食べましょう」と提案すると「食事は済んだ」とレームさんは言う。確かにレームさんは、サワンカロークで僕を乗せる前にメシ屋に寄っていた。よってひと気の無い食堂の椅子にひとり腰かけ、汁なしラーメンを食べた後は、ここで買ったペットボトルの水500ccを飲みつつ、しばし休む。
食堂とおなじ一角にある自転車屋で真新しい自転車を借りる。30バーツは妥当な値段だ。入場料は人間ひとりが100バーツ、自転車1台が10バーツ。環濠に渡された橋を渡り、正門と思われる南東の城門から中に入る。
ワットチャーンロムの基壇を囲む多くの象は、漆喰による写実的な目を残しているものから、漆喰の内側のレンガを残すのみになっているものまであるから、その構造は手に取るように分かる。中心に位置すること、規模が最大なことからして、城内に点在する寺院の白眉は間違いなくここだろう。しかし僕がもっとも興味を惹かれていたのは、山の上にあるという2つの寺院だ。
南西から北東にかけての短辺は1km、南東から北西にかけての長辺は1.5kmほどのこの遺跡の最奥部には、小高い山がある。疎林の小径に自転車を走らせると、やがて紅く、幅広く、天空の祭壇に昇っていこうとするような階段が見えてきた。天気予報によるスコータイの最高気温は、きのうとおなじ38℃。「酔狂」ということばを頭に浮かべつつ、草の上に自転車を駐める。
枯れた苔のこびりついた、日干しレンガによる階段は115段あった。ワットカオパノムプレーンの「パノム」とは、クメール語で丘を指す言葉ではなかったか。僕に背を向け北東側を向く仏像の正面に回り込んでみる。供物は新しい。朝、ここに登って祈る信者がいる、ということだ。太陽は中天にさしかかり、その日を遮るものはほとんど無い。
すこし考えて、尾根を南西に緩やかに下る。しばらく行くと、ここでもまた日干しレンガの階段が見えた。その階段を49段こなすとワットスワンキーリーの基壇の下に出る。昇ることを許されている三段目まで上がってみる。階段の総数は29段だった。眼下の寺院群は木々に覆われて、残念ながら望むことはできない。しかしここまで来れば満足だ。計78段の階段を下りきると、右手に緩やかな坂が見えた。よって帰りはそれを下って自転車に戻る。
ふたたび疎林の中に自転車を乗り入れ、土塁の内側に沿って南東へ、更に北東へ進む。日干しレンガによる基壇と途中で折れた柱のみ残る小さな寺院の名前はワットサヤカ。シーサッチャナーライの遺跡をスコータイの遺跡のミニ版と考える向きがあれば、それは大いなる誤りと僕は思う。
自転車を返却し、レームさんの姿を探す。駐車場には数台のクルマがあるのみだ。お土産屋のオバチャンが何やら言いつつ100メートルほど先を指す。レームさんは林の木陰にサムローを駐めて休んでいた。レームさんは僕の姿を認めると、サムローにエンジンをかけて近づき「暑い?」と訊いた。「暑い、暑い、暑い」と僕は3度、繰り返した。いつものポロシャツではなく、今日ばかりは裾の開いたシャツを選んで正解だった。
遺跡を出発したのは13時17分。リヤカーを曳くのではなく逆に前からオートバイで押す形のサムローは、何かと衝突をすれば客が真っ先に死ぬ構造ではあるけれど、風の当たりは素晴らしく、ゴーグルが欲しい。キモトさんの家には13時46分に着いた。
タイでは、日中の酒の販売時間を12時から14時までに限っている。よってキモトさんには小走りで酒屋に案内をしてもらい、”Colt’s Silver”という未知のラオカーオを買う。その米焼酎1本を提げて、今度は以前、キモトさんがfacebookに上げていた、高床式の大きな家の1階部分に床机を並べたマッサージ屋に連れて行ってもらう。
今回のオバサンは強揉みの人にて、すこし弱くするよう頼む。暑さへの対策なのだろう、頭上に這わせたホースから、水が霧のように放たれている。その霧をときおり顔に受けつつ至福のときを過ごす。この至福とは、マッサージが気持ち良かったというよりも、いかにもタイらしい時間を過ごせた、という満足感によるものだ。田舎のマッサージは安くて2時間で240バーツ。オバサンには300バーツを手渡した。
迎えに来てくれたキモトさんと、叔母さんの経営する仕立屋に戻る。叔母さんは朝とおなじく、氷の入った水をくれた。水はタイ語でナム、心はジャイ。このふたつを合わせたナムジャイは「思いやり」という意味だ。叔母さんは17時に店を閉めると裏手に回り、トヨタのピックアップを運転して戻ってきた。
宿までは、キモトさんとポップさんも同乗をしてくれた。今回の旅の目的が易々と達成されたのは、まったくもってキモト夫妻のお陰である。
夜は自転車を漕いで、きのうとおなじ店へ行く。そして鶏肉のチャーハンに目玉焼きを載せてもらい、それを肴にラオカーオを飲む。テーブルの下では森山大道の「犬の記憶」の表紙にそっくりな黒犬が「何かくれ」と、濡れた鼻先で僕のすねを叩いている。その犬は無視をして、ラオカーオのグラスをゆっくりと口に運ぶ。
朝飯 “Thai Thai Skhothai Guest House”の朝のブッフェ
昼飯 シーサッチャナーライ遺跡入口の食堂のバミーヘン
晩飯 “SUREERAT RESTAURANT”のカオパッガイカイダーオ、ラオカーオ”YEOWNGERN”(ソーダ割り)