2018.6.3 (日) 杉の精霊
ヒロオカヨシヒロ君の歯ぎしりで目を覚ます。床の間のコンセントに繋いだiPhoneをたぐり寄せると時刻は5時13分だった。しばらくうつらうつらし、またまた歯ぎしりの音を聞くことを繰り返して6時すぎに起床する。
「林新館」を、僕はリンシンカンと読んでいた。しかし正しくは「ハヤシシンカン」だという。今回の同窓会では、参加者がこの旅館の宿泊可能者数を超えたため、一部はヨネイ君の自宅に泊まらせてもらった。その一行も加えて8時より朝食を摂る。
「林新館」は鄙には希な、良い旅館だった。建物は、林業の盛んな土地柄を映してか、華美ではないものの、質実的な木材がふんだんに用いられていた。「これだけの旅館を、これだけの人口の町を維持していくのは大変でしょう」と訊くと「元々は料理屋ですので」と、我々と同年代のあるじは教えてくれた。道理で朝食が美味かったはずだ。
その「林新館」を9時に出て、先ずは「杉神社」を訪ねる。山から滝の落ちる渓谷にあり、杉の精霊をご神体としたこの神社は、ヨネイ君の祖父である米井信次郎氏が昭和30年に建立をしたものだ。湿気に耐えるためか、杉の木をかたどったらしい鳥居も祭のための建物も、また本殿代わりのオブジェもすべて鉄筋コンクリート製で、当時、名のあった人によるデザインのモダンさには、驚くべきものがある。
それにしても、会社の利益に繋がらないこのようなものを日本がいまだ貧しかった時代に建てた熱量には、感嘆を禁じ得ない。焦土と化した都市への木材の搬出により、終戦からの10年間でかなりの財を蓄えたのだろうか。しかし鳥居の左手にある「智頭の緑化は伊達では無いぞ、千萬植えて、生き抜こう」の碑文には、いささかの浮ついたところもなく、窺えるのは未来への決意のみである。
その「杉神社」から山を下って向かったのは、千葉県から岡山県に移ってきたところで、更に智頭町の移住をヨネイ君が勧めたワタナベイタルさんのパン屋「タルマーリー」だ。ワタナベさんは忙しい中、工房の奥まで我々を案内しつつ、天然菌の採取と検査について説明をしてくれた。僕が大きめのザックを背負って家を出たのは実に、この店のパンを買って帰るためだった。しかし窯から出したてであれば、しばらくは手に提げて運ぶこととしよう。
12月の上旬から3月の末までは雪のため閉めてしまう山の料理屋「みたき園」には、10時45分に着いてしまった。我々の腹の中には、いまだ朝食が残っている。よって斜面を下りて芦津の渓谷を逍遥したり、あるいは来た道を戻ってゆっくりしたりする。移築された古民家と古民家のあいだの小径を、放し飼いの鶏が歩きまわっている。僕は混ぜごはんを2杯も食べてしまった。
飛行機の時間を計算してか、シゲマツアキラ君は、食後すぐにレンタカーで去った。ヤハタジュンイチ君は座敷で昼寝をするという。そのふたり以外はすこし離れた東屋に集まり、ここで食後のコーヒーを飲む。会計係の僕が支払いを済ませると、封筒には3万円と少々が残った。きのうヨネイ君が手当した酒類、また僕が手配したワインの金額の合計に、その3万円はほぼ等しい。絶妙の残高である。
今日は朝からセキグチヒロシ君のクルマに便乗をさせてもらった。そして取りあえずは皆で智頭駅に戻った。セキグチ君は間もなく鉄道で着く奥さんと、来週末まで旅をするという。マルヤマタロー君と奥さんは、名古屋までふたりで戻る。鳥取空港へ向かう者もいれば、2012年に亡くなった同級生クロダヒロユキ君の、お母さんを加古川に見舞う一団もいる。
僕はアリカワケンタロー君、イリヤノブオ君、カゲヤマカズノリ君と共に、13:23発の「スーパーはくと8号」に乗った。姫路からは揃って14:49発の「のぞみ132号」で東を目指すものの、席は各車両に散らばっている。よって駅構内の喫茶店での小休止を経て改札口を抜け、プラットフォームに上がったところで別れの挨拶を交わす。
700系の車両は窓の狭いところが好きだ。僕は閉所に閉じ込められた状態で、本を読みつつ移動することを好む。新幹線は、17時53分に東京駅に着いた。
朝飯 「新林館」の朝のお膳
昼飯 「みたき園」の定食其の一、其の二、其の三
晩飯 「ささや」のあれや、これや、チューハイ