2017.9.25 (月) タイ日記(1日目)
00:20の出発時刻にもかかわらず、”BOEING 747-400″を機材とする”TG0661″は、いつまでも動かない。高度1万メートルに達して以降の寒さに備え、当方は半袖シャツの上に木綿のセーターとウィンドブレーカーを重ね、下半身には備えつけのブランケットを巻き付けている。額に薄く汗がにじむ。
00:45 これから燃料を補給する旨のアナウンスが流れる。
00:59 これから15分後に離陸の準備が整う旨のアナウンスが流れる。
01:26 定刻から1時間6分を遅れて離陸。
05:12 あたりが急に賑やかになって目を覚ます。アイマスクを外すと、間近に迫った客室乗務員が温かいおしぼりを手渡してくれる。
05:34 席に朝食が運ばれる。
“TG0661″は1時間6分の遅れを取り戻し、定刻ちょうどの日本時間06:50、タイ時間04:50にスワンナプーム空港に着陸をした。以降の時間表記はタイ時間とする。
05:20 機内からタラップを降り、バスで空港ビルに運ばれる。
05:25 どのあたりから空港ビルに入るかは、その時々による。今回は初めての場所につき、“TRANSFER”の表示よりも勘に頼って進む。
05:33 タイスマイル航空のカウンターにボーディングカードを差し出す。
05:40 そのすぐ脇のパスポートコントロールを抜ける。
05:42 これまで見たこともない、まるでローカル空港のそれのようなB9ゲートに達する。
07:19 ボーディングが開始をされる。
08:11 eチケットには”TG2130″とあるタイスマイル航空”WE130″は、定刻に21分を遅れて離陸。
09:15 羽田からの“TG0661″とおなじく、遅れを取り戻して定刻の09:15にチェンライのメイファールアン空港に着陸。
09:30 バゲージクレームにてスーツケースを受け取る。
09:34 ”TAXI METER”の矢印に従い、空港ビルの外に新設された場所でタクシーを申し込む。
「ナイトバザールのちかくのバスターミナルまで」と、オネーサンにタイ語で告げる。「ターミナル1ですね、160バーツです」とオネーサンは英語で答えた。”TAXI METER”とはいえメーター制ではない、ということだ。
空港から街への広い道路にハンドルを切りつつ「行き先はチェンライ?」と運転手が訊く。「チェンコン」と答えると「チェンコンまでなら1,000バーツ。このままチェンコンに向かうこともできますよ」と運転手がルームミラー越しに僕の様子を覗う。「いや、ローカルバスで行く。地元の人たちに混じって動くのが好きなんだよ」と、その提案を断る。
タイの地図の最北部に目を近づけると、ミャンマーそしてラオスとの国境に沿って西からメーサイ、チェンセーン、チェンコーンの3つの町のあることが分かる。いささか古い情報ではあるけれど、ロンリープラネットの2008年版によれば、人口はそれぞれ25,800人、55,000人、9,000人と示されている。とすれば、3つのうちのいずれを僕が目指すかは明白である。
市中心部の、改装されると聞いていた古いバスターミナルは、今まさにその工事中で、現在はそのちかくの、舗装もされていない広場がバスの発着場になっていた。トランクから僕のスーツケースを降ろした運転手に100バーツ札2枚を手渡す。運転手は20バーツ札2枚を釣りとして返して寄こす。僕は「タンブン」と言って、それをまた彼に戻す。運転手はニッコリ笑い、その40バーツをシャツの胸ポケットに収めた。
青いバスの後ろに立った男が「パヤーオ」と声をかけてくる。「チェンコーン」と、大きな声で返す。すると男は2台奥の、中々に年季の入った赤いバスの運転手と車掌に「チェンコンだってよ」と伝えてくれた。ちなみに「運転手と車掌」とはいえその風体は、街道筋の差し掛け小屋で焼きトウモロコシでも売っていそうな男女である。
車掌が僕のスーツケースとザックを最後席の前の床に置く。僕は運転手にひと言ことわり、通りに見えているセブンイレブンで7バーツの水を買ってバスに戻る。車内に乗客が増えてくる。と、後部の昇降口に「ファンソンシャンには行きますか」と、ファランのジイ様が顔を出した。ジイ様は、知り合いがLINEで送って来た、アルファベットによる地名を棒読みしているらしい。
とにかくその場所は、チェンコンからそう遠くないと判断をされ、ジイ様は僕の隣の席に着いた。バスは珍しく、定刻の10:30にチェンライのバスターミナルを出発した。帽子を深々とかぶり、マスクをかけたままのオバチャン車掌に65バーツの運賃を支払う。
バスは間もなく田園地帯に出て、一路、北東を目指す。窓外には、遠くの山まで水田の広がる景色が延々と続いている。
ファランとはタイ語で西洋人を指す言葉で、その語源は”foreigner”とも”France”とも言われているが、定かではない。とにかく「ファンソンシャン」である。
“days”が「大豆」に聞こえる訛りの強い英語に苦労をしつつ、僕やファラン爺とおなじ最後席に座った、英語とタイ語の話せるラオス人のオニーチャンがファラン爺の話を聞き、走行中のバスの中を歩いて運転手に相談に行く。「優しいねー」と僕はオニーチャンを褒める。「チャーイ」とオニーチャンは破顔一笑である。
「LINEの相手に電話をして、タイ語で誰かに説明してもらったら?」と、思い余ってファランに言う。”waiting”とは「先方から電話がかかってくるのを、オレも待っているんだよ」という意味だろう。やがて待望の呼び出し音が鳴り、ファラン爺はサムソン製のスマートフォンをオニーチャンに手渡した。
それはさておき僕は尿意を催している。しかし乗り合いのローカルバスでは、トイレ休憩などは無いだろう。いざとなったらその辺に停めてもらおうと考えるうち、バスは首尾良く給油のためガソリンスタンドに入った。走行中も閉まらない、というか開いたまま固定をされている後ろの昇降口から飛び出し、これまた開きっぱなしの前の昇降口から「便所!」とタイ語で運転手に伝える。ガソリンスタンドのオバチャンの指す方に走り、無事に排尿を果たす。外国語で先ず覚えるべきは、挨拶などより「水」や「便所」ではないかと、僕は本気で考えている。
チェンライのバスターミナルで、このバスの行き先は”Friendship Bridge Chiang Khong Laos(houay xai)”と示されていた。しかるに僕の行き先は、タイとラオスを繋ぐ、メコン川に架けられた友好橋ではなく、チェンコンの街だ。僕の心配は、ただその一点にある。
チェンライを出て2時間が経ったころ、バスが停まった。後ろの昇降口にはトゥクトゥクの運転手を示すオレンジ色のベストを着た男たちが集まって「ラオ、ラオ」と口々に誘う。来る途中で乗り込んできた「こんな田舎に住んで、何をしているのだろう」といぶかしく感じたやはりファラン男が「ラオスに渡るなら、ここが降りるべき場所だ」と、最前席から後ろを振り向いて大声を発する。「オレはチェンコンのダウンタウンに行く」と、こちらも大声で返す。ファラン男は「まだ先」と答えて、ふたたび前を向いた。
チェンコンの小さな市場には12時55分に着いた。「ファンソンシャン」を目指し、ここからトゥクトゥクで15キロを戻ろうとしているファラン爺は”See you again”と笑って去った。
日本にいるときgoogleマップで調べた限りでは、ホテルはそう遠くないところにあるはずだ。麦わら帽をかぶりサングラスをかけた、色の白い、良く言えば機転の利きそうな、悪く言えば目から鼻に抜けそうな女の人に、予約したホテルの名を告げ案内を請う。「だったらトゥクトゥクね」とオネーサンは答える。「いくら?」と訊く。オネーサンは客待ちをしている運転手たちに料金を訊ねる。30バーツ。即、示された荷台にスーツケースを載せ、座席にザックを置く。
ホテルには数分で着いた。スーツケースはフロントのオネーサンが部屋まで運んでくれた。オネーサンには40バーツのチップを手渡す。
シャワーを浴び、歯を磨く。スラックスと革靴を、それぞれタイパンツとゴム草履にはき替える。フロントに降り、ホテルの自転車を借りて街を一巡する。セブンイレブンでシンハ製ソーダの6本パックを48バーツで買う。街道とホテルのあいだの広場の屋台街で、鶉の炭火焼き1羽を買う。そして部屋に戻り、ことし6月にバンコクのパタデパートで買い、今回、ペットボトルに入れ替え持参したラオカーオをソーダで割る。肴は今しがた手に入れた、鶉の炭火焼きである。
時刻はいまだ16時くらいではないか。窓の外には滔々と流れるメコン川。そしてその向こうにはラオスの赤い屋根が、木々の間に散らばって見える。酔ってベッドに腹ばいになる。そして以降の記憶は無い。
朝飯 “TG0661″の機内食
昼飯 “WE130″の機内スナック
晩飯 鶉の炭火焼き、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)