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上澤佑基

コラム4 上澤佑基
現代の漬物考察 ?新漬物とは何か??

養と料理 6月号 漬物特集

このコラムは、『栄養と料理』6月号(漬物特集)内の記事について、上澤佑基が編集部宛に送ったものを、編集部の同意の上、加筆修正したものです。
このコラムの元記事は『栄養と料理』7月号にご掲載いただきました。

皆さんこんにちは。日光市で漬物屋を営む、上澤佑基と申します。『栄養と料理』6月号の漬物特集をたいへん興味深く拝読いたしました。とくに、冒頭にあった松本仲子先生の「本来の『漬物』はすでに消滅しています」という問題提起については大変衝撃をうけました。掲載されていました記事のとおり、漬物市場の衰退はまぎれもない事実であり、業界内部にいるものとして、危機感を覚えざるをえません。しかしながら、「本来の漬物」とは一体何なのか、先生が「消滅した」とおっしゃっている物は何なのか、インサイダーとしてもう一度考えてみたいと思うのです。

松本先生は、その文中、「塩をして脱水した野菜に天然の乳酸菌や酵母が繁殖し、発酵によって特有の酸味や芳香、歯ざわりなどを生じた伝統的発酵食品」と漬物を定義されています。また、後段では「浅漬け、即席漬け、一夜漬け」や「塩漬けした野菜の塩分を洗い出し、酸味やうま味などを調整した調味液に漬けて風味づけしたもの」は本来的な漬物ではない、と主張されています。これらをまとめると、先生が仰る「本来の漬物」とは、

  • ①長期保存に耐える塩蔵品であること
  • ②乳酸菌や酵母による発酵過程を経ていること
  • ③発酵過程を経た後の二次的加工を経ていないこと

の三点を具備したものと理解されていることと思います。反対に、これらの三点を具備しない漬物ーー塩蔵ではない方法で保存性を得ており、ほとんど無発酵ないしは発酵工程を感じさせない人為的な風味付けがなされているものーーが「伝統的でない漬物」と定義されます。このような主張は実は目新しいものではなく、前田安彦氏が『新つけもの考』(岩波新書、1987)で問題提起して以来、定説となっている感があります。

それでは、伝統漬物の個別例をとりながら、上記で措定した「本来の漬物」の三要件を検討してみましょう。するとどうでしょうか。長野県木曽地方に伝わる「すんき漬け」は、塩蔵工程を持たない乳酸発酵漬物であり、「①長期保存に耐える塩蔵品であること」という要件を満たしません。次に、伝統的な漬物の代表であることは誰もが認めるであろう「梅干し」は、塩蔵はするものの発酵過程を持たないため、「②乳酸菌や酵母による発酵過程を経ていること」という要件を満たしません。そして、天保年間に出版された『四季漬物塩嘉言』においては、発酵後の塩蔵野菜を甘酢に漬け替えるなど多彩な漬物の製法が紹介されていますが、これらの漬物は「③発酵過程を経た後の二次的加工を経ていないこと」の要件を満たしていません。

以上のことから分かるのは、「伝統漬物」と呼ばれるものも実は一枚岩ではなく、現在、一般に考えられているような単純な要件定義の枠のなかに収まりきるというものではないということです。伝統漬物はそれほど豊かで新しい。「本来の漬物」の定義からはずれた現代の漬物ーー「常温保存に耐えうる塩度を有しておらず、脱塩処理を経て調味加工され、時として加熱殺菌処理されるもの」ーーでさえ、一見、伝統から乖離しているように映ったとしても、すでに存在していた「伝統漬物」の諸相をしっかりと継承したものであるとも言えるのです。

ですから、「本来の漬物はすでに消滅しています」という先生の主張があぶり出したのは、じつは「伝統漬物の消滅」ではなく、「伝統漬物とは何か?」という問いに対する明確な答えが、これまで出てきていないということではなかったかと思うのです。

他の食品において、このような経過をもつものはあるでしょうか?

例えば、スシです。スシは元来、米飯と生魚に塩をして、重石をかけておくことで乳酸発酵を促す、まぎれもない「漬物」の一種でした。いわゆる熟鮓です。乳酸発酵で生まれる米飯の酸味は、いつしか酢という調味料を米飯に混合することによって人為的に再現されるようになり、重石をかけることによって固まっていた米飯は、「握る」という作業によって再現されるようになりました。いわば、熟鮓という熟成を要する食品が、即興的な料理としてインスタント化されることで、現在の握り寿司は誕生しました。その握り寿司でさえ、そもそもは大きいオニギリ状の米飯のうえに魚の切り身が載っていたものから、現代風の、ひと口サイズで、ひとたび口のなかに入れればとろけるようにほぐれる物へと変貌を遂げています。しかしながら、江戸前の握り寿司について「本来のスシはすでに消滅しています」などと言われることは、おそらく皆無でしょう。むしろ、板前さんの立ち振る舞いに、歴史や伝統の重みさえ感じることができるはずです。

「本来の漬物」が、漬物それ自体の製法や品物の品質などの内的要因によっては、容易に定義し得ないことはすでに見たとおりです。ところが、同様に、伝統的な製法とは何であるのかが容易に定義し得ない寿司については、我々はむしろ伝統を感じ取ることができる。彼我の差は一体どこにあるのでしょう。

様々な議論は可能だと思いますが、ここでは、ひとまず、「工業化の度合い」に理由があると考えたいと思います。

現在、スーパーマーケットやコンビニエンスストアなどの量販店に見られるような漬物は、大手メーカーによる大量生産・大規模物流の体制によって日々作り出されています。塩蔵・脱塩・調味という概ねの生産工程は、江戸末期に確立したやり方を現代にまで踏襲しているものの、その多くは機械的に工業化されています。その姿から伝統を見てとることは、やはり困難でしょう。一方、同様の製造工程をたどったとしても、家庭内で、手仕事によってそれが行われる場合(多くの場合、その担い手は年配の女性でしょう)、伝統を感じることができるかもしれません。寿司においても、板前さんが握る寿司には歴史を感じ、まったく同様の見た目であっても、工場でロボットが生産し、パック詰めされた握り寿司には、伝統は感じられないのではないでしょうか。

我々の感覚というのは、実にファジーなものです。歴史や伝統は、感情によって直感されるものであり、机上の定義によって理解されるものではないのかもしれません。このような前提に立った上で、もう一度論点を整理しましょう。『栄養と料理』6月号の漬物特集に掲載された、松本仲子先生の「本来の『漬物』はすでに消滅しています」という文章は、我々漬物業界に携わる者にとっては非常に衝撃的なものでした。それは、現代の工業化された大規模生産の漬物が批判されていること以上に、図らずも、家庭内での手仕事による「本来の漬物」が日本社会から失われつつあることの傍証となっているからです。たとえば、2009年にグルマン世界料理本大賞を受賞した栗原はるみ『Harumi's Japanese Cooking』(HP Books、2006)には、漬物のレシピはひとつとして掲載されていません。漬物はもはや、伝えていきたい日本の味ではなくなってしまっているのでしょうか。

長く、漬物は添え物であり、単体で主役たることができる食品ではありませんでした。カレー屋さんの福神漬けやらっきょう、寿司屋さんのガリを思い出してください。基本的に、それらはすべてタダであり、メニューにすら載っていない場合がほとんどです。そのような市場環境のなか、漬物製造業界は、つねに強い値下げ要求にさらされ続けてきました。値下げ要求が過ぎれば、ともすると、品質の保証できないような材料を使い、限度を超えて製法が単純化された商品が市場に出まわることもあったかもしれません。「漬物は不味い」、そのようなイメージが拡がれば、食卓における漬物の存在感が弱まって当然です。環境による制約はあったにせよ、漬物業界は、一部では、自分で自分の首を絞め続けてきている面も否めない、というのが業界内の人間としての忸怩たる思いです。自戒を込めて書きますが、このような現状から脱却するために、漬物業界は、漬物が持つ価値を伝える努力を、弛まず続けるべきです。

漬物が持つ価値とは何かーーすでに紙幅に余裕がなくなってきますが、ここでは、「一汁一菜という和食のフォーマットを支える、欠くべかざるいち要素である」ということだけ記しておきます。逆説的ではありますが、なぜ、家庭内において存在感を失いつつある漬物が、それでもなお、外食産業において求められ続けているのか。その答えは、ここにこそあるはずです。

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