興奮、湿熱、名状しがたい臭気に眠れない夜を過ごし、鉄格子の向こうに夜が明ければ太陽は分厚いスモッグに遮られてその輪郭さえ明らかでない。長い廊下の両側に薄緑色のドアが並ぶ木賃宿の朝はいまだ静かで、踊り場にある売春婦の部屋の前には、布1枚を腰に巻いただけのボーイがござの上でいぎたなく寝息を立てている。
小便滓のこびりついた共同便所の脇から女たちの色とりどりの下着が干してあるヴェランダへ出てみれば、眼下にはまるで嵐の晩に集団で死んだ蝙蝠のように重なり合う黒いトタン屋根が、一体どこまで広がっているものやら分かりかねるほど遠くまで続いている。
裸足になる気はとうてい起きないシャワー室でゴム草履を履いたまま屋上からのぬるま湯を浴び、ボーイだけではなくこちらも裸の上に腰巻1枚を身につければそれでも気分はいくらか爽快さを取り戻し、昨夜の狂騒が路上のあちらこちらに残る街へ出て行く。
艶やかで瑞々しい葉の上に並べられた揚げたてのバナナ、汁麺を売る女、小振りだが底の深い椀で汁かけ飯を食べている老人。その洞窟のような口腔にわずかに残った歯には檳榔の錆朱色がある。髪を刈り上げ白い開襟シャツを着た子供は小学校へ向かう途中だろうか。小さな橋を渡れば、クロンの水はまるで墨汁のように黒い。
赤い土の上に建ついにしえの僧院からどこをどう流れてこの街の、そしてまた誰から誰の手を渡って幾星霜を経たのかは知らないが、その仏像は静かに目を伏せていた。台の構造からうつむき加減のそれはこの国のある時代の特色をよくあらわす細面の優しさで、しかし腰をかがめて下から見上げれば、こんどはいきなり、りりしい丸顔をあらわした。
「首が胴から離れたのは戦乱によるものか、あるいは持ち運びの便を考えた盗賊の狼藉によるものか」 と考えたがもちろん、それは誰にも知れないことだ。僕はオヤジの言い値から2割を負けさせ、薄く柔らかい紙で包まれたこの仏頭を右手に握った。それまで聞こえなかった人の声やクルマの音がふたたび耳へ届いてくる。気温はすでにして不快なほど高くなっているにもかかわらず、空へ目をやれば、太陽の輪郭はあいかわらず曖昧だった。