あれこれと前書きを連ねたが、それらはすべて捨てた。とにかく "Alden" と "trippen" の話である。
むかし銀座4丁目のある店に飛び込んで靴を求めた。初見のセレクトショップでいきなり安くない買物をしたことについては色々と理由があったわけだがそれは省く。そのVチップは翌朝、これまでに経験したことのない上出来の履き心地を感じさせて、当時 "Alden" などというブランドを知らなかった僕を大いに驚かせた。
それではその靴を僕が愛用したかといえば、そのようなこともない。 氷壁登攀用の "Dolomite" よりも高い価格を恐れ、すり減らしては勿体ないと、意識しないままにこれを遠ざけたのかも知れない。長く使われないこの靴はそのうちに黴を生やし、その黴に革を食われては大変と水で洗い、翌年の梅雨時にはまた黴が生え、また洗い、とこれを繰り返しているうち、いくら優れていても相性の伴わない靴はあるものだと考えるに到った。
数年前、ウェブ上に "trippen" という靴を見つけた。「いかにもデザートブーツじゃまずいだろう」 という際に用いる靴を "Alden" 以外に持たなかった僕は、まるで折り紙のようなその造形に目を留め、店主にあれこれと質問のメイルを送ってみた。返事はすぐに届いた。僕は即、それを注文をした。
固くしなやかな革で足を包み込むような "Alden" の履き心地に対し、"trippen" のそれにはいまだ固まる前の陶板に裸足で立ったような感触があった。個々人の足にこの靴が慣れるまでの期間を店主は 「1ヶ月から3ヶ月」 と説明したが、いざ履いてみれば、それは1週間でも充分のように思われた。
このベルリン生まれの靴は節度ある安楽さにより、その後 「格好なんて何だって構わねぇよ」 という日にも頻繁に使われるようになった。 手に入れたあれこれがみなこの靴のように愛用されれば自分の周囲にあるものはことごとく安い買物となるが、すべてがそう上手くいくものでもない。
朝の階段を駆け降りていくとき、夜の石畳を踏みしめるとき、ふと足許に目を遣るとアヒルのくちばしのようなそのつま先が見えて、しかしそれは地面を鷲づかみにして右にも左にもぶれない。"trippen" は低山徘徊用の "Dolomite" よりは高価な靴だ。しかしまた、これはきわめて安価な靴でもある。