愛快的汽車

中国人が外来語を自身の言葉として取り入れるとき、その方法には意味を優先する意訳と音を優先する音訳とがある。しかし幸運にもその双方を満たした訳語も存在して、その随一は 「愛快羅密歐」 ではないかと、僕はひそかに考えている。

山からの直線道路が海に突き刺さる直前で右へ90度曲がる角に、あの自動車工場は今でもあるだろうか。レースを翌日に控えたいくつかのティームはこの白い建物にマシンを持ち込み、最後の調整に余念がなかった。東アジアの植民地で行われる競走はエフワンなどとは遠く隔たった草レースだから、あちらこちらの大陸や島から集まったメカニックがお互いになにか隠し事をしたり、火花が散るほどのやりとりをすることはなかった。そこにはただ、亜熱帯の秋だけがあった。

僕に与えられた仕事は、工場の大型工具を借りてくることだった。どのティームも、このオセアニア大陸の東端まで完璧な工具を空輸することはしていなかった。1階のジャッキを3階で使う了承を取り付けて以降はこれといってすることもなく、僕はガラスのない窓から海を見ていた。

その海と、明朝にはサーキットの一部となる直線道路とのあいだの立て看板に 「愛快羅密歐」 という文字はあった。

ひとつひとつを右に傾け、より速度を感じさせるためか、まるでそこから気流が発生してでもいるかのように文字の右側に何十本もの横線の描かれた 「愛快羅密歐」 を認めた後、その下にある別の文字に僕は目をこらした。小さく赤いアルファベットは "Alfa Romeo" と読めた。

視線を上へ戻した僕は 「愛快」 の文字が 「ロンバルディア自動車製造株式会社」 つまり "Anonima Lombarda Fabbrica Automobili" を略した "Alfa" の中国式表記だと知って 「なるほど、アルファロメオは愛と快楽のクルマなのか」 と感じ入り、そして笑った。

「アルファロメオは、愛と快楽のクルマである」

この、まるで公理のような断言を確かめてみたければ、"Giulia Sprint GT" をどうということもない直線路に乗り入れ、そしてスロットルを踏む右足に少しだけ力を加えてみればよい。1600CC直列4気筒エンジンの鼓動を腕に感じ、その排気音と、フロントピラーを切る風の音を耳に聞きながらただ加速をしていくだけで 「確かにこれは、愛と快楽のクルマだよ」 と、人は確信するだろう。

愛快的汽車
2005.0301