何の飾りもない、固く厚い革のブーツでスターターペダルをキックすると、空冷単気筒のエンジンはいまだ夜の霧が去る前の街に、軽く転がるような4サイクルの音を響かせ始めた。山中を低速で這い回ることに特化したオートバイの小さなシートにまたがり、ペダルに立ったまま操作できるよう上へ垂直に伸ばしたチェインジペダルを靴底で蹴る。
右手のグリップを絞り込むにつれ、エンジンはそれまで静かに保っていた息を一気に解放してまたたく間に回転を上げた。正面に見える西方の山は東の空から射しはじめた朝の光を受け、その薄青い肌を頂部よりオレンジ色に染めつつある。真昼よりもはるかに濃度の高い湿った空気は顔に心地良いが、ベルトで固定された高い襟に阻まれ胸元を冷やすことはない。
アスファルトの林道はいつか砕石を敷き詰めた山道になり、それも樹間の小径に変わった。ふたたびシートから尻を上げ、森の奥へと慎重に進んでいく。落ち葉におおわれ見えなかったくぼみに落ちた前輪が、車体の重さを受けて扁平さを増す。長いストロークのサスペンションが大きく沈む。しばらく行くと、今度は後輪が傾いた木の根をとらえて横へ滑る。
ブーツはとうに泥にまみれた。パンツは巨大なシダに触れてあるところは緑に染まり、あるところは小さなトゲにこすられ傷ついている。針葉樹の濡れて黒光りした小枝はムチのようにしなって容赦なく二の腕を叩くが、擦り込まれたワックスがところどころに白く固まる、まるで帆布のように分厚い上着を正しく身につけた上半身は羽で撫でられたほどにも感じない。
やがて眼下に白く泡立つ渓流があらわれる。森の出口は黄緑に揺れて見えているものの、そこへ達するには、あといくつのとがった岩や苔むした倒木を避けていく必要があるだろうか。
頭上を飛び去ったものの正体は知らない。僕は渓に転げ落ちないよう、ただそれだけに神経を注ぎながら、柔らかく積もった腐葉土の上を過ぎていく。