チューブの中に閉じこめられて、現実味のない高い速度で、椅子へ座ったまま、体を左右に揺られている。風を切る音まで聞こえてきそうな勢いで、線路脇に立つ無数の鉄柱が、次から次へと視界の外へ飛んでいく 。
ひときわ長いトンネルからライフル銃の弾のように打ち出されると、そこには秋ともいえず、冬とも呼べない景色が広がっていた。先ほどまで晴れていた空はそのままに、しかし、心なしか雲が増えている。
いきなり、車窓に雨粒が打ち付ける。時雨だろうか。遠くに人のいない海岸が見える。
"anemone" という曲が、イヤフォンから流れている。いくら繰り返し聴いても、そのメロディを、すべて覚えることはできない。そこにはただ、ゆるやかなリズムと、転調を繰り返すアルトサックスがあるばかりだ。
静かな景色を眺め、鈍い黄金色を思わせる音の起伏を追う。テイブルに置いたコンピュータや読みかけの本は急にその意味を失い、意識の外へ去っていく。数字と文字の集積から、窓の外の薄い明るさに視線を移す。
閉じていた目を開けると、いつのまにか雨は止み、雲間の青い空は、ふたたびその領域を広げていた。地面から突き出た灰色やピンク色のビルの谷間を縫って、やがて列車が停まる。
コンコースにあふれる無数の色彩が、なぜかとても淡く感じられる。雑踏にあふれているはずの音も、いまは聞こえない。夕刻の街が乳白色に煙っている。アスファルトの地面は乾きつつあるが、街路樹の根元はしっとりと水を含んで、闇の中へ溶けている。
石畳の坂を上がる。その道を上りきった角にガラス張りの花屋があることは、ずいぶんと前から知っていた。いつもは通り過ぎるだけのその店の窓から今日に限って中を覗くと、木綿のフリルのようにぎこちなく、素朴に縮れた白や赤や紫の花弁が見える。
髪の短い女の店主は黒いセーターを着て、耳に小さな金色のピアスをつけていた。
外から見た花を指して 「これ、アネモネですよね?」 と訊くと、店主は戸惑ったように笑いながら 「いえ、それはアドニスです。花の大きさも色も、葉も、アネモネとは違いますでしょう?」 と答えた。
僕は照れ隠しに少し笑い、「それ、いただきます」 と言った。
道は花屋の横から鉤の手に折れ、その先には大きな庭木を持つ家が続いている。空はその色を夜のものに変えた。息の長い虫の声が、どこからか聞こえてくる。僕の耳が "anemone" を求めている。
やがて頭の中に聞こえてきたそのフレイズは、やはり転調を繰り返して、時々途切れては、木綿のフリルから鈍い金色の糸が顔を出すように、テーマの始めへと戻っていく。
手に提げたアドニスを上へ向け、街灯の明かりに照らしてみる。いくら目を凝らしても、アネモネとアドニスの違いは分からなかった。