啓蟄のころ、酔って地下鉄神保町駅の長い階段を降りていくと、足元で金属の音が響いた。靴の先で何かを引っかけたらしい。普段ならそのまま階段を降り続けるところ、このときばかりはなぜか振り返り、蹴飛ばしたものの正体を確かめようと身をかがめた。
何とそれは手の上に乗るほどの、小さな鋳物のガネッシュだった。
これは吉兆だ。僕は小さく 「ガネーッシュ」 とつぶやき、それを額に押し当てた。
ガネッシュはヒンドゥー神のひとりで、破壊の神シヴァと、その妻パールヴァティの間に生まれた息子だという。頭の部分はなぜか右の牙が折れた象、首から下は腹のつき出た幼児の体型。大きな図体を持ちながら、ネズミに乗って移動をする。
ヒンドゥー教徒たちの中でも、彼の人気は特に高い。僕の愛用するスカーフ の模様もやはり、このガネッシュが主題になっている。
ガネッシュは新しいことを始めるときのリスクを払い、福を呼び寄せる。あるいはまた、招財の神でもある。多くのヒンドゥー神の中で僕がもっとも贔屓にしているのは、このガネッシュだ。
ガランと空いた夜の地下鉄の車内で騒音にまみれながら、僕はときおり握った手を開き、ガネッシュの存在を確認した。鈍い真鍮の光が、嬉しくてたまらなかった。
桜の花びらも舞わず、月の光も届かない地下鉄の中にも、「春宵一刻、値千金」 はあるらしい。