街を歩いていると、視野の端に、なにか引っかかることがある。顔の左右どちらかの頬や耳に、光線のようなものを感じることがある。思わずそちらへ、顔を向ける。
何年か前、日本橋の裏通りを歩いているときにも、顔の右側に何かを感じた。視線を右へ振ると、道の向こうに古美術屋のショウウィンドウがあった。屏風がある。たくさんの文字が並んでいる。道を渡ってそれを眺める。まことに良い。
更に近づいて、署名に目を凝らす。
「中川一政」
ここで僕は 「ちぇっ、やっぱりな」 と、思う。 「やっぱりな」 とは、「オレの目に、狂いはなかった」 という自分に対する自慢。 「ちぇっ」 とは、「中川じゃ、買えねぇじゃん」 という落胆の気持ち。
2000年の正月、銀座8丁目のやはり裏道を歩いていたときにも、妙に右の方が気にかかった。小さな画廊があった。カラスが生ゴミをあさっている早朝で、店には格子状のシャッターが降りていた。
僕を呼んだのは、その格子の奥にみえる、小さくて地味な四角いものだった。
じっと見ると、ひとつだけ文字の書かれた色紙だった。更に歩み寄ると、西暦2000年の干支である 「龍」 という文字。シャッターに頭がぶつかる距離まで近づいてみると、それは熊谷守一の書だった。
「ちぇっ、やっぱりな」
僕はこれまで、いったいいくつの 「ちぇっ、やっぱりな」 を、繰り返してきたことだろう。
しかしまた、街と僕たちとの関係は常に、衝突と即興に彩られている。「やっぱりな」 という再確認ではなしに突然の出会いもまた、何者かの手によって、周到に用意されている。
土砂降りの京橋で進退に窮し、道のはたにある画廊へ逃げ込んだ。大小10数点の作品を持つ、若い作家による個展だった。その中に、40年ちかく前の懐かしいモダンさを感じさせるオブジェがふたつ、並んでいた。
直線とゆるやかな曲線とを組み合わせた、計算されつくした造形。同じかたちを持ちながら、片方はアクリル絵の具がしっとりと停滞し、もう一方は逆に、薄く溶かれた塗料が垂直方向に流れている。
作者の柏木弘は、「このふたつはそれぞれが独立した作品で、だからそれぞれを別の場所に置いても差し支えはない。もちろん、単品での買い上げを意識したものだ」 と、言う。しかしこのふたつのオブジェを前にした僕は、彼の声をうわの空で聞いていた。
「これは間違いなく、僕の中では対だ」
結局、僕は柏木弘がアトリエの床に這いつくばって見つけた直線と曲線によるふたつの作品を、同時に手に入れることにした。削られた木の上に何重にも貼られた紙が同じかたちを作り、しかし各々が異なる手法で彩色されたふたつのオブジェ。
「ちぇっ、やっぱりな」 は眼福ではあるけれど、突然の出会いももちろん、悪いものではない。なによりもそれらの作品は多く、ほどのよい無名さをいまだにとどめている。