毎時90マイルの速度で、遠くに海を望む長い直線を疾走する。小さなウインド・スクリーンの先にあるサーキットの風景は、意外にも静かだ。
ブレーキ・ペダルを強く踏み、エンジンを毎分4200回転から2500回転まで落とすと、いよいよコーナーは目前に迫る。僕はボディ右側に露出したギヤレバーを握り、力ずくでトップからサードに押し入れる。薄い皮のグローブをはめた手が木製のステアリング・ホイールを小刻みに振る。
ダンロップ製の細いタイヤは直列8気筒2300ccのパワーに抗しきれず外へ外へ流れようとするが、スロットル・ペダルへ加える右足の力を細心に調整し、コースぎりぎりのラインを目指す。
次のコーナーへ向けて短い直線を一気に加速すると、シャーシから前輪に延びるブレーキ・ワイヤーは波を打って踊り、エンジンは毎分3500回転を回復する。と同時に、その排気音は悍馬の激しい鼓動、あるいは軍楽隊の太鼓手が連打するタムタムの響きのように跳ね上がり、操縦する者は思わず叫び出したくなるような興奮にとらわれる。
"BUGATTI TYPE35T" を駆って走る喜びを、どう表現すべきか。これは間違いなく、地上に舞い降りた筋斗雲だ。
もしも一生のうちにたった1台のクルマしか所有できないとしたら、僕は間違いなく、ミラノ生まれの天才エットーレ・ブガッティがモールスハイムの工場から1924年に送りだした "BUGATTI TYPE35T" を選ぶ。代々が芸術を生業とする家に生まれたエットーレ・ブガッティは、独特の単純で彫刻的な、しかも限りなく美しいエンジンを設計した。
熟練工が旋盤と中ぐり盤のみを用いて仕上げるこの結晶のようなエンジンは、1920年代後半の公道とサーキットのレースで連戦連勝を重ねた。が、しかしエットーレのあまりの偉大さと頑迷さにより、その古典的アイディアは以降もそのまま受け継がれ、徐々に時代遅れのものとなっていく。
1926年には12の主要なグランプリで勝利をおさめた "BUGATTI" も、やがて大資本と大型の工作機械、そして何よりも数学と科学を解するエンジニア達によって作り出されるアルファロメオやマセラティの後塵を拝するようになるのだ。そしてそれらのライバルに対抗する "BUGATTI" の8気筒エンジンは燃焼室上のカムシャフトを2本に増やし、簡素なデザインにはそぐわないスーパーチャージャーを搭載してエットーレの美学からは離反した、重く複雑なものに姿を変えていく。
"BUGATTI" は1963年にその息を止めたが、この希有で神秘的なブランドの数十年の歴史の中でも"SOHC"、"Non supercharger"の "35T" は珠玉の存在だ。なによりこのグランプリ・カーには、弱冠19歳にしてグリネッリ伯爵兄弟というパトロンを得たエットーレの、天賦の才能と芸術家の血が凝縮されている。
"le pur-sang des automobiles" とは、このクルマだけに与えることのできる賛辞だろう。