東京都台東区にある吾妻橋、馬道、西浅草三丁目、雷門一丁目。この4つの交差点を巡ると、浅草寺の外堀ともいえる正方形を一周したことになる。その距離は2.5Km。路地の徘徊も含めれば、この途中に飲酒喫飯をふくむ散歩は、3Kmに達しただろうか。
今井アレクサンドルという奇妙な名前に出会ったのは、クリスマスを数日後に控えた、そんな夜のことだった。
とあるバーの褐色砂岩の壁にワイヤーで吊された150号ほどの作品は、一面が赤で塗り込められていた。中心に大きな白い十字架。その交差部分には、まるで磨き込まれた真鍮のように分厚い質感の金色の星。周囲には同じく金色の小さな十字架が、かなりラフなタッチで無数に散らばっている。
黒と金の組み合わせは、東洋の色の配列だという。とすればこの今井アレクサンドルの赤と金の組み合わせは、どのような土地で得られたものなのだろう? いずれにしてもこの赤と金の意匠に、僕は強く引き寄せられていった。
西洋人による鳥の楽しみ方は 「見る」 ことだという。東洋人の鳥の愛で方は、伝統的には 「飼う」 ことにある。出会ったものに強く惹かれていくと、どうしてもそのものが欲しくなってくる。僕は、ものを濃く楽しむためには、やはりそれを 「持つ」 ことが必須の条件と考える。散歩の途次に立ち寄ったバーの壁にある150号の絵を所望するなどということは酔狂の限りだが、欲しいものは仕方がない。
今、僕は自分の家で、この今井アレクサンドルの絵を子細に観察する。赤色をたたきつけた絵の具の固まりを手のひらに感じ、金色の筆の軌跡を指でなぞる。あるいは、この六つのツノを持つ金色の星が朝の光を映して、白く巨大な十字架の中心に、様々な濃淡をあらわす様を眺める。所有してはじめてわかることが、あるいは所有しなければわからないことが、「もの」 には多く存在するようだ。
いままでは知らずにいたが、今井アレクサンドルの分厚い金彩のアイディアは、湾岸の隠れ家のような録音スタジオや、神楽坂のマホガニー色の渋いバーになど、意外と多く棲息しているらしい。