ベルギーの防水木綿スーツ

食器やカメラやクルマを中古で購入する。中古だからもちろん、それぞれの品は歴代の持ち主によるキズを持つ。そのキズも含めて 「欲しい」 と思った品だから、気になることは全く無い。

ところがその歴史を経た品に、自分の不注意から新たなキズをつけてしまう。この新しいキズには、なぜか我慢がならない。一体全体この不快感は、どのような僕の性向から導き出されるものなのか?

中古のものばかりではなく、新品で購ったものについても、この自分でつけたキズに対する後悔の念は同じく僕の落胆の種になる。たとえば引き裂き強度の弱い布。

ウールのスーツ、絹のジャケット、あるいはニットのセーター。こういう衣類を着ている際にはよくあることだが、うっかりなにかの突起物にそれを引っかけて、キズつけてしまう。そうすると、愛用の品ならば尚更のこと、ずっとウジウジと落ち込んだ挙げ句、それを身につけなくなることはおろか、二度と目につかない場所にしまい込んでしまったりもする。

キズつけることを恐れて、おっかなびっくり、そのような素材の服を着るのも腹立たしい限りだ。僕はいつの間にか、分厚い木綿の服ばかりを身につけるようになった。

もともとスーツはキライだ。喉元までボタンを閉めなくてはいけないシャツも、またネクタイも疎ましい。そのような格好でメシを食べざるを得ないときには、ふと

「このメシを、半ズボンとTシャツとヨット ・ シューズの格好で喰ったら、もっと美味いだろうな」

とさえ思う。

しかし世の中には、スーツを着なくてはいけない状況も存在する。けれどもすぐにキズがつくようなヤワなスーツは欲しくない。 「相反する矛盾の、可能な限り高次元における妥協」 僕がもっとも不得意とする分野だ。ある日、僕は、ひとつのアイディアを思いついた。

高等学校の頃から知っている、現在では齢70を超えた "Sartoria" のオヤジさんに質問をした。 「あのー、レインコートの生地で、スーツを作ることは可能ですか?」 返ってきた答えは意外にも 「はい、可能でございます」 というものだった。

数週間を経て、オヤジさんは生地の見本を持ってきてくれた。レインコートの生地は、ベルギー製だという。 「レインコートといえば、英国が本場なのではないですか?」 「いいえ、この手のものは、ベルギー製のものが最高でございます」

そう言われてみれば、僕が厳冬期用として使っているフランス ・ ヒマルテュリ社製の寝袋も、中の羽毛はベルギー製だ。どうもベルギーという国は、謎に満ちている。

それはさておき、僕はその生地見本の少ない色の中から紺を選び、予め便せんにスケッチしたデザイン画を、オヤジさんに渡した。

二度の仮縫いを経て完成したレインコート地のスーツは、まるでヨロイのような着心地だった。オヤジさんによれば 「お召しになるうちに、お楽になります」 とのことだった。これは、湯島天神下にある登山用品の老舗 「片桐」 で、純正のティロリアン ・ ジャケットを購入したときに、店主に言われたセリフと同じだ。僕は覚悟を決めた。 「自分で着て慣らすしかない」

結果からいうと、このレインコート地のスーツは、僕が持っているあらゆるスーツの中で、1番低価格のものとなった。5000円のシャツでも、1回着ただけでしまい込めば単価は5000円。15万円のスーツでも、100回着れば単価は1500円。僕はすべからく、モノの値段をこういう数式で算出する。

price ÷ times = unit price.

若い人の購買意欲をあおる雑誌には 「一生モノ」 というフレイズが多く目につく。しかし本当の 「一生モノ」 とは、そうどこにでも存在するものではない。 「一生モノ」 というコピーに惹かれた人によって購入されて、しかし流行が去った後には気ままに放り出される。そんな品の、いかに多いことか。

ところで僕の 「ベルギー製レインコート地のスーツ」 は、一生モノや否や? これが一生モノではなくなってしまいました。僕が太ったために1度修理をしてもらったのですが、 「これ以上お太りになると、もう修理はききません」 と言われた後に、また太っちゃったんです。

ベルギーの防水木綿スーツ
1999.0509