むかし京都のある料理屋で茶碗蒸しを食べた。筒型の黒い陶器に同じく黒塗りのさじを差し入れ、まずひとくち。ふたくち、そして三くち。ここで違和感。カマボコやギンナンはおろか三つ葉さえも見えてはこない。無論、出汁と玉子のあんばいは結構で、だから味は最上だが「これを粗末と考えるのは田舎者の無知だろうか?」 と考えはじめたそのとき、器の底に2フィンガーの分厚い生ウニを発見して「なるほど、そういう仕掛けだったか」 と得心をした。
なだらかに張った肩が裾へ向かい弧を描いて細くなる、高さ四寸ほどの染付の器を見ている。蓋を外して中を覗いたり、あるいはその蓋の中心にある小さな取っ手がなにをかたどったものか考えたりする。白い肌のその器を畳の上に置いたり手のひらへ載せたり、あるいは鎌倉彫の皿と合わせてみたりする。
「コーンビーフとほうれん草のバター炒め。自分の作ったおかずの中で1番うまかったのはこれです」 と言ったら「アメリカが進駐してきたころの子どもは大抵、コーンビーフが好きなんだ」 と返されたがもちろん、僕はそれほどの年寄りではない。第一 "neu frank" のコーンビーフとPXから放出されたコーンビーフとのあいだには、イザベラ・ロッセリーニと進駐軍の女将校ほどの差があるのではないか。この店のコーンビーフに限っては、フライパンで炒めるなどとてもではないがもったいなくてできるものではない。
キャベツの柔らかいところを選って3センチほどの角に刻み軽く油で炒める。どこか遠い国の舎利入れにも見える蓋付きの器へこれを2寸ほどの厚みに詰め、薄く切った"neu frank" のコーンビーフ数片を置く。その上にまた熱いキャベツを載せ蓋をする。下から上から蒸されたコーンビーフは多分、その肉と肉の絡まり合いを柔らかくほぐしつつ自身の脂を溶解させているに違いない。
1分、2分と待ち、しかしカップ麺ではないから3分も待つことはない。カタツムリにも見える小さな取っ手をつまみ蓋を開けると、立ち上る湯気にはその遠慮がちな風情とはうらはらに、キャベツの青さとコーンビーフの成熟とが濃密にある。
何を飲む? ウイスキーなどという野蛮なものはやめておけ、辛くて甘くて力の強い日本酒を冷やで飲め。そして僕は切っ先の鋭い箸をそろそろと、その器へと近づけていく。