銀座 「一寸桜」

ある夕刻、歩いて首都高速会社線の土橋ランプにさしかかると、青いフェンスにヒルガオが巻き付いて、白く小さな花をつけている。ヒルガオがいつ開いて、いつ萎むのかは知らないが、アサガオよりも小振りな分、その花も葉も肉は厚く見え、残暑の厳しさによく耐えているような印象を受ける。

今はただアスファルトの隆起になってしまった土橋を渡り、旧電通通りを横断する。日が落ちかかるころ、難波橋の交差点には赤いテイルランプのクルマが集まって、やがてゆっくりと西の方へと流れていく。並木通りを過ぎて北に折れ、矩形に切り取られた金春小路の入り口を左手に、無数のネオンが作るモザイクの森を行く。

金春湯の、青地に黄色い看板が近づいてくる。それほど急ぐわけでもなく、目の焦点を細く絞るわけでもなく、少し息を吐きながら、とある雑居ビルを地面から屋上まで斜めに貫いているような、狭くて傾斜の強い階段を確かめる。

その階段を十数段、あるいは二十段ほども上って、ごく普通の、そっけない木の扉を押す。

「隠れ家」 ということばが流行っている。東京の盛り場に意図して作られた 「隠れ家」 は、この1年間でどれほどの数になるだろう。その店の、イタリア製の黒いソファに身を沈めただけで、男も女も、普段より数等、美しく映える隠れ家がある。そしてそのような店で供される食い物は大抵、美味くない。

「一寸桜」の木の扉を開くと、明るい照明の下に、5客のストゥールを置いたカウンターが延びている。糊の利いた白いシャツのあるじに僕が伝えることは、今夜はどのような酒が飲みたいか、ただそれだけだ。あるじは僕とふたことみことを交わし、冷たい酒の入った小さな鶴首の徳利を目の前に置く。

あるじはよく手入れのされた、鋭く長い包丁を持っている。その包丁で、最小限の調理をする。

「オヤジさん、このクジラ、高かったでしょう」 などと、僕が言う。あるじは黙って笑っている。この店は、良い材料に、ほんの少しの、しかし魔法のような仕事をして、燈刻の、初更の、あるいは深夜の客を喜ばせる。

1時間ばかりのあいだに、僕は3種類ほどの酒を飲む。目の前に出され、片づけられた皿の数は覚えていない。店にも器にも料理にも、奇をてらったところは何もない。僕は普段のヨタ話よりも幾分かはまじめな話をし、勘定を頼み、きわめて満足をしてピンヒールと嬌声の街へ降りていく。

中に蛍光灯を仕込まれたモザイクは、先ほどよりも格段に暗い空に縁取られて、その鮮やかさを増している。ヒルガオは、もうその花弁を閉じただろうか。

僕はその花の小ささを思いながら、しかし、土橋ランプには背を向けて西五番街を下る。6丁目の、いまは廃業した画廊の暗やみに消えていく螺旋階段を目の端に感じつつ、それが近道でもないのに、奥でふたまたに分かれた路地へと足を向ける。

中央通りへは出ない。晴海通りへも出ない。明るく広い道は、身中にたくわえたコクを薄れさせるような気がする。路地から路地をたどり、なかば壊れた街灯に照らされた裏町の横断歩道を渡り、どの階段から地下鉄の構内へ入り込もうかと、僕は考えている。

一寸桜(ちょっとさくら)
一寸桜(ちょっとさくら)
〒104-0061 東京都中央区銀座8-7-8 三有ビル2階 TEL.03-3571-8739
土曜日・日曜日・祝日定休 18:00~2:00
2002.0901