通りへ面した料理屋にタクシーで乗り付け、いきなり玄関へ達する。著しく面白味に欠ける遊びの序章だ。料理屋の扉に手を触れるまでのしばらくを、僕は徒歩にて過ごしたい。歩く道に坂や川、階段や路地があれば、更に言うことはない。
春の雨に濡れた夜の権之助坂は、灯りと喧噪に満ちて楽しい。目黒駅周辺の複雑な地形から、多くのクルマは砂時計のくびれを過ぎる赤い粉のように、滞ってゆっくりと進む。最近このあたりにできた南アジアの料理を供する店から、香菜や麺を湯がく匂いが漂ってくる。
僕はしばしば立ち止まり、その懐かしい匂いに顔を向けて息を吸う。
だらだらの坂を500メートルほども下る。防塁に似た大きな柱に小さな明かりをともした目黒新橋を歩く。黒い川のおもてが、もやにかすんだネオンサインを映して揺れる。
人々はいまだ冬の服を脱がないが、夜の風は既にして暖かい。
目黒川を渡って左に折れる。自動車屋やガソリンスタンドが見えるのは、その通りへ入った直後のみにて、ほどなく僕は、静かな闇の中へと溶けていく。
「仁平」 の看板が見える。盛り塩に目を落としながら引き戸に手をかける。木の格子に磨りガラスをはめ込んだ戸のたてる音は、いつどこで聴いても懐かしい。
磨き込まれた白木のカウンターにつき、燗酒を頼む。それからの小一時間、僕はただ、ぼんやりとしていれば良い。店主から薦められるままに肴を取り、酒を飲み、鮨を食べる。時を見計らって出されるあら汁が、ことのほかに美味い。
白木と白熱灯の明かりの中で過ごす何も考えないひとときが、夢のように過ぎていく。
食事を終えて席を立ち外へ出ると、先ほどまでの弱い雨はほとんど止んで、空には月さえ見えている。来た道を逆にたどり、ふたたび坂を上がる。
下りたり上ったり、折れたり渡ったり。街は四角く平坦であるよりも、球形や倒した円錐の形が面白い。そしてその表面を飾るのが、夜の雨だ。
相手がいても、傘は1本にてことたりる。春の雨はいつも柔らかく、甘やかに香っている。僕はゆっくりと覚醒しながら、濡れた坂を上がっていく。