近世までの日本にどれほどのねずみ色があり、いくつの雨の呼び名があったかは知らないが、そして海抜3,000メートル以上の高所にどれほどの蘭があり、幾種類のカブトムシが存在するかは想像もつかないが、それらの名前つまり名詞をあつめた図鑑があれば、その逐一を読んでうるさく感じない自信はある。ただしどういうものか動詞については、これを禁欲的に絞った文章の方が、いたずらに技巧を凝らしたそれよりも格調高く、自分には好ましく感じられる。
「鮨をつまむ」 「蕎麦をたぐる」 と書くことは恥ずかしくてできない。なぜ恥ずかしいのかは分からない。「鮨を食べる」 「鮨を食う」、「蕎麦を食べる」 「蕎麦を食う」 なら恥ずかしくはない。
「袴を穿く」 「草履を履く」 というときの 「穿く」 と 「履く」 はまとめて 「はく」 と平仮名にしてしまった方がいっそすっきりする。ただし「紙を切る」 「木を伐る」 というときの 「切る」 と 「伐る」 は残して欲しいと思う自分の感覚を、筋道立てて説明することはできない。
いましがた 「筋道立てて」 と書くとき、頭の中にはそれよりも早く 「論理的に」 という言葉が浮かんだが 「論理的」 などそれこそい頭の中が論理的に組み上がっている人の語彙であって、自分が使うものではないとの意識が、それを書くことを押しとどめた。
自分の文章を 「推敲する」 とは照れて書けない。これが推敲どころか 「彫琢」となると、キャッと叫んでろくろっ首になるほど恥ずかしい。鴎外森林太郎でもないのに自分の文章を 「執筆する」など書けるものではなく、あるいは西田幾多郎でもないのに本を読み終えて 「読了」とは書けない。熟語を多用した文章は書き手の明晰な頭脳を表していそうで、その実、それを書いた人の頭が本当に上質かどうかは分からない。
造作の良い文章とは、どのようなものを指していうのだろう。軽く涼やかな、砧で叩いた白麻のような文章だろうか。あるいは土で汚れた手に握られた、鉈の柄のような文章だろうか。「チンパンジーの描いた絵のような文章」 というのはどうか。
風に折れ地面に落ちた小枝を拾い集めたような子供の作文を聞くうち、思わず引き込まれることがある。三島由紀夫が自身の 「文章読本」 で激賞したのは、意外や百鬼園内田栄造の文章だった。