追悼 長谷川英郎君

「なに着てこうかしら」 と訊かれて 「なんでもいいよ」 と答えつつ僕は、離れの玄関を上がってすぐの左側にアップライトピアノの置かれた和室を思い出し、「ズボンの方がいいな」 と言い直した。

1980年代が明けてすぐのころ、当時、白金三光町にあった家内の実家から板橋清水町の長谷川の家まで、どのような経路をたどって達したかの記憶はない。季節についても憶えてはいないが、暑くもなく寒くもなかったような気がする。ただひとつだけ憶えているのは、その宵が、長谷川がアメリカへ向けて発つ前夜だったということだ。「明日、これ着ていくんだ」と言いつつ、羽織った紺色のスタジアムジャンパーの胸元をチョイと右手の指でつまんだ長谷川の様子は、今も僕のまぶたに新しい。

長谷川の部屋はひっそりとしていた。そういえば長谷川は音楽を職業としていたにもかかわらず、客のいるときにはあまりレコードをかけなかったような気がする。あるいはこれは、たまたま僕が訪ねたときのことだけだったかも知れない。とにかくあの晩、我々3人は静かに楽しかった。振り返ってみれば結婚をする前、否、結婚をした後でさえ、家内を伴って訪れた同級生の家は、なぜか長谷川のところただ1軒きりだった。

帰り道、僕と家内は環状七号線の常盤台付近にクルマを停め、あの時代の東京には珍しかった、スープの上に豚の背脂が1センチほども浮く強烈なラーメンを食べた。この店を最初に教えてくれたのは、もちろん長谷川だ。

長谷川がアメリカから帰国して、こんどはひとりで清水町の離れを訪ねた。

ロスアンジェルスからグレイハウンドのバスを使ってニューヨークへ行くと言い、向こうで知り合った音楽家たちに「飛行機の方が安くて速いのに」と笑われたこと。そのバスの中で騒がしく歌い続ける男と、途中から隣に座ってきたデブのオバサンのために眠れない夜を過ごしたこと。深夜、どこにいるのかもわからないところで休憩をして、道路を横切る鹿の群れに遭遇したこと。そしてそのとき不気味なほど綺麗に輝いて空にあった星のこと。

乗り換え駅の不親切きわまりない女の出札係に怒って 「天皇陛下に言いつけるよ」 と日本語で (ただし、いかにも長谷川らしく口の中でモゴモゴと) 言ったところ、それに気づいた日本のビジネスマンが助け船を出してくれたこと。

当時、ソルトレイクシティに住んでいた二年先輩の岡田淳君を訪ねて、しかしその家を見つけられずに街をトボトボと歩いて立ち小便をしたら、あまりの寒さに小便が地面から逆つららのように立ち上がったこと(長谷川はホラを吹くような性質の人間ではないため、これは多分、目の錯覚かと思われる)。その岡田淳君が長谷川の到着の遅れを心配して、付近の住民に「このあたりを東洋人の太った男が歩いていなかったか?」 と訊きまわり、遂に自分を見つけてくれたこと。

ニューヨークでなにかのオーディションに参加をしたこと、そこで主催者から「どうして旅の途中で、このオーディションを受けてみる気になったのか?」との質問を得たこと。同じくニューヨークで夜、不良から金を要求されたため、ポケットの中身すべてを手の平に出して見せたところ、そのあまりの少なさから、男に胸ぐらを平手で突かれたこと。

再会した同級生のウィルソンと、グリニッジヴィレッジのジャズクラブで大量に飲んだビールに酔って帰る途中、金もないくせに地下鉄Aトレインの "West 4th St." 駅のプラットフォームからコインを投げ、線路の上にそれを乗せようとしていたら、通りすがりのオジサンが「面白そうじゃねぇか、オレにもやらせてくれよ」 と、その遊びに加わったこと。 後日、同じクラブにふたりで裏を返したら、バーテンダーに 「ハイ!バドワイザー・ボーイズが戻ってきたぜ」 と言われたこと。

そういう馬鹿ばかしい話や、あるいは懐かしくそして静かに楽しかった夜のことが、今は思い出されるばかりだ。

2003年12月12日、長谷川のお通夜にいただいた 「お清め塩」 は、いまだ僕の手元にある。夏になったらどこかの飲み屋で、冷やしトマトに振りかけて使おうと思う。


Hideo Hasegawa
2004.0201