高橋義孝が昭和33年つまり1958年に書いた 「現代不作法読本」は百篇の随筆から成るが、そのすべては、1,282文字から1,296文字の中に収められている。これを分かりやすく説明すれば、僕の持っている角川文庫版では、百篇の随筆すべてが、見開いて俯瞰できる2ペイジの左端、最後の1行をもって完結している。
高橋義孝は学者であって、職人ではない。しかし、これらの随筆が字数の限られた雑誌などへの連載ではなく、あとがきにあるように、「この七月の初め頃から何となく書き始めたら、八月のある日に丁度百篇になった」 ということを考えれば、これは大した職人芸の上に、鬼神の憑依さえも感じさせる仕事だ。
笠啓一による私家版 「歌がうまれる」 は、一篇600文字の文章をまとめた随筆集だ。これを読んで僕は、600という文字の数が、随筆にはとてもしっくりくることを知った。
自分の日記は随筆ではないけれど、上記ふたりの文章を読んで、文字数600の日記を書き続けることはできないかと考え、今回はそれを試みる。なお、この行いは、金銭には繋がらない、それどころか何の役にも立たないことばかりを為す、僕の生まれながらの性癖による。
平成15年10月1日 水曜日 晴れ
目覚めればいつものように、闇か明かりか判別のつかない青色の濃淡にて、家具や積み重ねた本の輪郭がうかがえる。夜は終えていないが、かといって朝も始まらず、その中途に寝台を降りて、服を着る。
洗面所の窓を開ければ、西の空には夜があり、東の空には朝がある。その朝の、光というよりはおぼろげな水色を映して、山が藍色の星空に浮かんでいる。
仕事場へ降り、1時間ほどを、してもしなくても、誰が生きるでも死ぬでもないよしなしごとに費やして、外へ出る。
夜半の雨に濡れた道をたどって隠居のしおり戸を開く。庭へ回れば、あるじは枯れ果て滑り落ちた鉄線花の棚に、名の知れない蔓がからみついて、わずかに紅葉している。
梢の高いところで木の実をせせる鳥の姿は、冬の入りを思わせる薄青い空のまぶしさに黒い点となって、つぶさに見ることはできない。その空に、小学校の運動会を報せるものだろうか、音だけの花火が上がる。
居間へ戻って食卓に着く。鮎の一夜干し、しめじと菊花のおひたし、冬瓜の鶏挽肉あんかけ、大根のぬか漬、飯、椎茸と油揚げと焼き葱の赤だし味噌汁という、温めた酒の欲しくなるような朝食。
空にふたたび、花火が上がる。古い応援歌を思い出す。 「アキゾラタカク、ココロオドル、ヒゴロキタエシ、ワガカイナ」
と、ここまで書くうちに、文字の数は既にして600。