7月19日、下野新聞の、朝日新聞でいえば天声人語にあたる 「雷鳴抄」 に、「かつて宇都宮にあった宮の橋屋台は、1994年の秋、橋の架け替えと護岸工事のために撤去されてしまった」 という一節を見つける。
「いくつかの屋台は同市赤門通りに移ったが、8年後の今日まで残った2軒のうちの1軒が 『ももや』 で、あるじの名はモリキミコさんだ」 と、文章は続く。
僕は、「ももや」 「女主人」 というふたつのことばから、家内といまだ幼かった長男との3人で過ごした、楽しい宵のひとときを思い出した。
暗い川面が、岸辺のネオンを映して揺れていた。モリキミコさんは長男に、「むかし文化が栄えるところには、必ず大きな川があったんだよ」 と、教えてくれた。そして、「人もお金も情報も、むかしはみんな、川を行く船が伝えたんだよ」 と、続けた。
いま、このモリキミコさんは、「街にぬくもりと人間くささがないと、人は集まってこないんだよ」 と、記者に伝え、そしてこの記者は、「町並みこそ綺麗になったが、屋台の灯りと共に、庶民でにぎわう夜の活気も消えてしまった」 と、文章を締めくくっている。
「繁華街の 『繁』 は雑踏、そして 『華』 とはいかがわしさに他ならない」 と、年長の友人は言った。「繁」 や 「華」 は、一朝一夕にできあがるものではない。そしてそれは、一旦なくしてしまえば、ほとんど失われたままになる。
1970年代までの東京には、焼け跡闇市の香りを強く留める駅前や横町を、いくらでも見ることができた。以来30年、それらを押しつぶすようにして、色とりどりのポストモダンや、ふたたびモダンに回帰するような鉄とガラスの建物が、決して以前の風景を思い出させない完璧さをもって林立してきた。
以前の風景をおぼろげながら覚えている人間は、本当に少なくなった。そしてこの30年にできた高楼のみを見て育った人間が過半を占める世は、すぐ近くまで迫っている。
汐留や六本木の高みまで高速エレヴェイターで運ばれて、なにか面白いことがあるか? いま訪ねるべきは、地に足をつけて歩く人と街と店とが長い年月をかけて作り上げてきた、あちらの駅前、こちらの横町ではないか?
雑踏といかがわしさからなる本当の賑わいを、我々はいつまで持ち続けることができるだろうか。