経験

なぜ歌舞伎役者の肉体に寸分のすきなく、あるいは意図したとおりの崩れ具合で着物がしっくり重なるかといえば、それは彼らが子どものころから着物を着つけているからに他ならない。

夏の明け方、自分の畑に実った赤いトマトを採り、それを隣人にもらった鶏卵と炒めて朝飯のおかずにしている田舎の人は、都会のイタリア料理屋で、メニュに生産地をうたった鳴り物入りのトマト料理を口へ運んで、曖昧な笑顔を浮かべる。

たわんだ鋼のように緊張した古典的欧州車の尻や胴体にいつも触れていれば、助手席に乗せられサーキットをぐるりと一周してきただけで冷静さを失い、オリジナルから大きく離れたクラシックカーのレプリカに大枚を散じる失敗は犯さない。

優れた品物だけを見続けてきた子どもは、魯山人よりも、彼が範とした安土桃山の無名の陶工の器について 「こっちの方がいいね」 と、後ろに立つ大人を振り返る。

風雪の淘汰に耐えた古老の箴言を幼児期から耳に叩き込まれた子どもは、欲望と思想が身中に危険な繭玉をつくる思春期に至っても、大きく道を踏み外すことはない。

経験とは、質と量の積が問題になる。そして子どもにそのような質と量のかたまりを提供することこそが、大人の仕事だ。

教育に、幾分かの強制が発生することは否めない。

「子どもの意見を尊重します」 だの 「子どもの意志決定に従います」 などという、大人としての責任を回避するかのような言葉を聞くたびに僕は、「再生紙を使用しています」 と印刷された、これみよがしの名刺をなぜか思い出す。


トマトと玉子
2002.0701