手しごと、手づくり、手計算

ある人が昼下がりの定食屋でメシを食べていると、店のオバチャンがランチタイムの売り上げを電卓で集計し始めたという。計算をするたびに異なる数字が出てしまうらしく、オバチャンは何度も電卓を叩き直している。

数字はいつまでも合わない。オバチャンはいつまでも、昼休みに入れない。

「電卓というものは、非人間的な道具だ」 と、その人は言った。「使うならコンピュータだ」 と、その人は言った。

本酒会 の会計係は、会場として使う蕎麦屋のオヤジが務めている。毎年1月に、僕はこのオヤジから渡された前年度の数字をコンピュータに入れ、清書をする。清書をするだけでは芸がないので、マクロを回して検算をする。

1ヶ月に5、6行、1年でも100行に満たない金銭出納帳に、毎年毎年、間違いがある。本業の、蕎麦屋の帳面は大丈夫なのだろうかと、いつも心配になる。

「これがウチの顧客名簿ですねん」 と、あるジャコ屋の大将は宅急便の荷札から引き抜いた 「ご依頼主控え」 のぶ厚い束を見せた。僕は 「そうですか」 と返事をしながら、暗澹とした気分になった。

老骨にむち打ってジャコを炊くかたわら、この大将は検索も並べ替えも繰り越し演算も利かない紙のデイタベイスと、深更まで格闘しているに違いない。

「手しごと」 「手づくり」 「手計算」。なんでも 「手」 がつけば素朴で愛らしく、おまけに 「環境にも優しい」 行為なのだろうか? 「手」 でした結果が非人間性につながるということが、世の中には案外、多く存在している。


手計算
2002.0201