玉村豊男『料理の四面体』(文春文庫版)を読む。facebookで森枝卓士さんが紹介していたのを目にして、「へえ、こんな本があったのか」と思った時には、もう、アマゾンに注文をだしていた。
森枝さんもおっしゃっていた通り、まず、伊丹十三の解説が素晴らしい。「構造主義」について、その来歴と展開を平易かつたのしい文章で訴えてくる。これぞまさに「解説」。つくづく、惜しい人を亡くしたものだ。(なお、この解説は文春文庫版のみ。)
さて、この本の優れているところは3つあって、
・ひとつは実用書としてのおもしろさ。
・ふたつめに料理の家事負担から人々を解放しようとする試み。
・みっつめに料理を構造主義的に再定義することによって、人とはなにか、文化とはなにかを語ろうとしているところ、だと思う。ソシュールやヤコブソンに倣えば、さしずめ、「一般料理学」とも呼ぶべきものを、玉村は企図している。
ひとつめについて。
冒頭にアルジェリア風羊肉のトマト煮込みのレシピが旅の情景とともに紹介される。雑誌『dancyu』の別冊「いいレシピって何だ?」号にも紹介されていたけど、まず、これを猛烈に食いたい気持ちになってくる。文章がすばらしいんですよね。
ふたつめ。「羊肉を牛肉に、にんにくを玉ねぎに、トマトを醤油や酒に置換可能」ということを、この本は教えてくれる。「構造」に着目すれば、本質的には、シチューと牛皿とブイヤベースは同じ料理なのだ。
つまり、この本がアルジェリア風羊肉のトマト煮込みのレシピを紹介したとき、そのバリエーションとして、無数のレパートリーが言外に提示されたことになる。
「今日は何を食べようか、ついてはどんな材料を揃えなければならないか、どの料理研究家のどんなレシピを参照しようか」などと考えることが日常の、家事としての料理にあたる人にとって、これは福音であると思う。あるいは、冷蔵庫のあり合わせのもので、とりあえずオカズを作ってしまう、料理の得意な人の「器用な仕事」のありようを、碩学がサラリと軽く分析してみせた、ということなのかもしれない。
みっつめ。料理をひとつの「構造」として眺めた時、ステーキは和え物とさえ等しいものになる。
人が自然から分かれて文化を獲得したアルファでありオメガは、まちがいなく「料理」という行為そのものに表現されているはずである。動物行動学者の山極寿一は、原始ヒトの進化的な特異点は二つあると言っている。ひとつは道具を使って動物の骨髄を取り出して食べられるようになった時期。もう一つは、火を使えるようになった時期。どちらも、良質な栄養素を効率的に摂食できるようになったことで、狩猟採集に費やす時間が短縮でき、代わりに、文化的な活動に時間を使うことができるようになったのではないかと仮説を立てている。
もちろん、この仮説にはこの仮説なりの説得力がある。一方で、コペルニクス的転回・あるいは人類学的ヘリクツを述べてみようとするならば、「料理はまさに言語として構造化されている。したがって、料理そのものが人間を自然から分節化させたのであり、脳の肥大化は、まさに、その料理という言語を獲得した結果なのである」となる。ならないか。
ことほどさように、アルジェリア風羊肉のトマト煮込みから始まった旅は、広く深い世界認識をともなったものになっていく。下敷きにしたであろうレヴィ=ストロース『神話論理』シリーズなど、ほとんど邦訳もされていない時期に、軽いエッセイとして、また、読み応えある文明批評として、日本語でばっちり書かれていたことに、驚きを禁じえない。
さいごにひとつだけ疑問(というか、提案)を。
タイトルのとおり、「料理の四面体」とは、料理の構造を「空気」「水」「油」「火」の四つの要素から分析しようとする企てではあるのだが、ぼくには「水」と「油」をなぜ別個のものとして章立てしているのかが、うまく理解できなかった。水も油も、物性はまったく異なるが、「熱を媒介する液体」と考えれば、ほぼ同様のものではないだろうか。
また、別の章では「人間は火を使うことを発見したとき料理をはじめた」というテーゼに対し「人間は塩を使うことを発見したとき料理をはじめた」というテーゼも成り立つのではないかと書いているにもかかわらず、調理の基本構造には「塩」が登場しない。これはなぜなのだろうか。ぼくのふだんの仕事は漬物屋であり、漬物にとって最も重要なのは、なんといっても塩分のコントロールであるからして、「塩」については、もっともっと重要視してほしかった。
また、そのような個人的な感情とは別に、「塩」は、味付け以外に、浸透圧によって素材から水分を引き出し保存性を高めるのみならず、蛋白質を変性させる作用も持っている。
中国語圏には、鶏卵を塩水のなかに殻のまま漬けて長期間保存した「鹹蛋」というたべものがある。塩水に漬けておくだけで、卵の蛋白質が変性して、ハードボイルドのゆで卵のように固まってしまう。このように、物性の変化を司るものとして、「塩」は「火」に対置されるべきであろう。
調理の機能面に着目したとき、物性の変化を呼び起こすものが「火」と「塩」である。それらの機能の媒介をするのが「空気」と「水(ないし油)」である。さらに、調理の目的面に着目したときに引かれるもう一本の軸があるように思う。
それは「凝固」と「軟化」だ。
柔らかな、とりとめもない卵を、「水」と「火」によって「凝固」させるのがゆで卵である。
カチカチの肉を、「水」と「火」によって「軟化」させるのがシチューである。
硬い米や大豆を、「水」と「塩」によって「軟化」させるのが「味噌」であり、流体である豆乳を「塩」(これはエンと訓んでほしい。広くミネラル分を指す。)で「凝固」させるのが豆腐である。
と考えると、調理における「発酵」のプロセスがうまく説明できるのではないか、と思っている。
そうすると、玉村氏の四面体は、ここに及んで、デカルト式3軸座標=六面体になった。
本家本元のレヴィ=ストロースは、「腐ったもの」というカテゴリーを設けて「発酵」について語っていたので、玉村氏がこの摩訶不思議な、そして、すばらしい果実をもたらしてくれる技術について、言及してくれなかった点がやや残念である(前述のとおり、もちろん個人的な感情のせいでもある)。
いずれにせよ、こういった思考実験じたいが楽しい遊びであるし、「料理本」の系譜から考えても、この『料理の四面体』は、特異な一冊であるように思う。歴史的名著といえると思う。
料理の「6面体」—— 一般料理学入門
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