明治四一年生まれの久二郎が、梅太郎とイトの許に養子に入ったのは、大正六年、九歳のときだった。

実家の豊田家は横浜で生糸の貿易商を営んでいた。

特に第一次大戦によるシルク恐慌が起きて以来、横浜には日本で唯一の生糸取引所が設置されており、隆盛を極めていた。

外国商館の存在から国際色も豊かであり、久二郎の実母カクは、西洋料理は西洋人に、中華料理は中国人に習っていたという。大正一二(一九二三)年、そのような暮らしが一変する。

関東大震災の発生である。