フラというのは芸事、とくに笑いに関する世界のことばで、曰くいいがたいおかしみや面白さのことを指す。言語化できない、従って技術としては伝承できない、その人限りの雰囲気をいうものだ。
明瞭な概念にできないことについては語ってはならない。と言ったひともいるけれど、詳らかな言葉として腑分けされる前段階の「情」というものが、人にはあるだろう。フラとはそのテのものである。
フラのありやなしやというのは、なにも芸人に限ったことではない。政治家にもあるであろうし、商売人にもあるであろうし、農家や漁師にもあるだろう。得も言われぬ楽しさや、親近感を抱かずにはいられない人物というのが、世の中にはいるものである。きっと皆さんの知り合いにも、二、三人はいるでしょう?
さらにいえば、これは人物に限ったことではない。絵画や音楽なんかの創作物にも「フラ」は宿るし、公園だとかスーパーマーケットのような「場」自体にも、フラということばは敷衍して使ってもいいような気がする。飲食店についてだってそうだ。
宇都宮は、いちおう、バーの街ということになっている。「いちおう」と留保してしまったのは地方コンプレックスが原因に他ならないので、深くは追求しないでほしい。しかしながら、名店・有名店・その暖簾わけの店などが、確かにたくさんあるのである。
一方の店は大通りに面していて、よく手入れされたカウンター、栗材の床、地元の大谷石をふんだんに使った内装は、シックかつゴージャスである。グラスは磨き込まれていてバーコートは身体によく合い、ショートカクテルも端正かつ秀眉。正統派の素晴らしいバー、すなわち「オーセンティック」ということになる。ぼくはラフロイグのソーダ割を注文した。バーテンダーは「ずいぶん不味いものをお飲みになりますね。」と言って作ってくれた。それは、とても美味しかった。
もう一方の店は、いわゆる繁華街、つまりいかがわしいエリアにあって、赤レンガの壁、何だかゴミゴミした客席、老バーテンダーは開店と同時刻からすでにできあがっていて、杖にもたれて挨拶をするばかりである(カクテルは若手が作る)。この店には、これまた老いたピアノ弾きがいる。コールポーターが心地よい。ネット上には「酔客のリクエストによりピアノが突然K-POPを弾き始めたので度肝を抜かれた。また必ず行きたい」とあった。
もう一例。
日光から東京に出て行くとなると、JRか東武線を使うことになる。多くの日光住みの人たちは東武線を使っているんじゃないかと思う。最寄り駅に特急が停まるからだ。新幹線のほぼ半額で、新幹線とほぼ同じ所要時間である。使わない理由がない。
東武線を使って東京に行くと、北千住と浅草に停まる。とうきょうスカイツリー駅(旧・業平橋)にも停まるが、こっちのアタマが古いせいか「スカイツリー乗り換え」というルートにまだついていけていない。だいたいは北千住か浅草を使う。
北千住か浅草を使うとなると、乗り換えついでに一杯飲んでいこうか、ということになる。
北千住駅近くは、飲み屋に事欠かない。そのうちの一軒に入ると、カウンターの中では、鯖の文化干しが脂をしたたらせていた。
次の瞬間、その脂に引火して、焼き網の上は火だるまになった。初老の、元フライ級ボクサーといった出で立ちの、眼の澄んだ焼き方は、慌てず騒がず鯖をトングで掴み、もう一方の手で器用に焼き網を床に叩き落とすと、盛んに燃え立つ炎を土足で踏みつけた。そして、鎮火した網を再び焼き台に戻し、何事もなかったかのように、鯖をその上に載せなおした。店内は、ご常連のタバコと、魚や肉の焦げる脂でけぶっており、人々はただ粛々とおのれの酒を飲むばかり、である。こちらもレバーの若焼きを注文することととした。
これが「フラ」というものである。
さて、
「フラ」の源泉とは一体何なのだろうか。一言でいえばそれは「業の肯定」、つまり底の抜けた優しさであろう、と、優しさの足りないぼくは、自戒をこめて思っている。